* 『NINA-物質化する生け贄』 Noism



来年6月の新作のマテリアルにまず圧倒された。
ときどき視界の端がぶれることで、どれだけ5人のダンサーがシンクロしているかがわかる。
アフタートークで穣さんが「本番までにはもっと精度を上げてゆく。精度というのは単純に言えばスピードということです」ということを言っていた。
これ以上にか、とため息をつく。求めるなあ。そりゃあそうなんだけれど、むーとうなった。
「表現する」というようなことをよく考えるけれどあの動き・形のなかに何か、感情のようなものを込めているかといえば、単純に言えばそうではない、と思う。
ひたすらにその精度を高めることであらわれる形・スピード、移り変わる時間、伸び縮みする空間、光や影としての像…そこにあるのは物質であって、意味とかこころとか感情が直截舞台にのっているわけではない。(それが立ちあらわれていないということではもちろんなくて)
技術的なことと内面的なことをこのごろ考えているので、ちょっと極端なとらえかたをしてしまったかもしれないけれど。
(あ、でもこの舞台がことさらにそれを感じさせたんだ。)

ゲストダンサーの永野亮彦さんが目をとらえて離さなかった。
すごく好きな動き方、音楽のとらえ方、像の残し方。

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本編。
色のないレオタードを着た女性ダンサーを黒いジャケットを纏った男性がマネキンのように動かす。
自由な動きを奪ったからだ、感情を取り払った顔。
そこには強く在ろう、という存在の意思のようなものだけが感じられる。
からだの細部を使わない強くてきっぱりとした動きの連続。
動かなくてもそこにある肉はちっとも静かじゃない。モノみたいに奪い去ってもやはりモノではない鼓動のようなものが視線を呼ぶ。
しじゅうくすぶる根源のようなもののことを思った。
人間ってこういう生きものなのだ、と。

目的のない欲。それが「生きる」ということなんじゃないかな。
名前をつけられない欲こそ、生きるということ。
そこにたくさんの理由をつけているだけ。付加されるものを求めてる。
装飾を削いで殺いで残る、いのちそのものはこんなにも強くてどこかに直結する。
(最後にマネキンたちは服を着るんだけれど、そうしたら急に色が没するところも面白かった。)

生命というものをそこまで物質化してみてそこに至るって、なんて逆説的なんだろう。
創りこんで裸んぼうの部分に到達するなんて。
感情なんかひとつもみえないからこそ、より、人間らしいなんて。

けれどちょっと思ったのは、動物は人間よりも本能で生きているように見えてもちゃんと社会性もあって、うちのちゅんなんか取り繕ったりコミュニケーションとしての駆け引きみたいなものも持っている。
本能を失った人間こそそこに意識的に降りてゆけるのだとしたら、アートってそういうことなのかな、ということを思った。
取り戻すために、芸術性だの表現だのいいたいのかな、私は。と。


ちょっと恐かった。
あまりにも“私という肉体はここにある”という存在欲が強くて、そしてなによりそこに理由がないから。
途中、今までただ動かされ振り回されていた人形たちが抵抗して貫こうとする場面があった。欲の先はただ「存在する」とか「生きる」ということに見えた。
理由がないからダイレクトで、外的要因で曲がることもない。そのことにぞっとした。
生きていることってなんてなんて、なまなましいんだ。と。


ちょっと離れるんだけれど、アニメのエヴァンゲリオンのことをふと思い出した。
エヴァに出てくる敵たちはただ生き残るためだけに自分の存在を脅かすものを排除し、体に取り込む。(卒論にカニバリズムを取り上げたのでことさらにこのことが興味深かったのだけれど)
生き残るため、というのが理由であることがあのアニメのすごいところだと思う。

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たくちゃん、とても素敵だった。
すごい身体能力だなあって思ってたけどこれほどだとは。
にこにこ「頑張ったよー」って言ってたけれど、ほんとうにすごくすごく積んだのだろうなあ。
今度は最初からたくちゃんがいていちから創られる作品のことが楽しみだ。
素晴らしい作品とチケットをありがとう。
6月も見に行きます。頑張ってね。

あと、マンハイムで出会ったえみちゃん。
えみちゃんだけが踊っているときになにかしらの表情をつよく浮かべていたように思う。
でも私はとてもそれがいいと思った。
生きることは気持ちが良い。それが思わず溢れたような表情だったから。

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どうしても気になって2005年の初演のビデオを買ってしまった。
前回は床も白いしセットや照明も凝ったバージョンで、今回はリノリウムも黒くそぎ落としたブラックバージョンらしい。
見比べるのが楽しみ。
(※写真はwhite ver,)