お風呂で考えたこと



お風呂でラジオを聴いていたらKANの『愛は勝つ』を杏が歌っていた。
この曲は今までなんだか恥ずかしくなっちゃうようなかんじがして得意じゃなかったのだけれど、なんだかこころにしみた。
シャンプーの合間に途切れとぎれにしか歌詞がわからなかったんだけど耳がひろう言葉はどれも今ぐっとちからとか素直さみたいなものを引き出してくれるように感じて、応援ソング的なものの良さをはじめて感じたかもしれない。

今日は早苗ちゃんの受注会2日目。
岡山からご両親がみえていた。(妹さんも!)
早苗ちゃんがときどき日記でご両親や妹さんに対する思いを書いていたからお会いできて嬉しかった。
お父様とたばこスペースでご一緒したときに、いろいろお話しして、そこで自分がことばにしてはっと気づいたことがあった。
自分の興味というか視線が、より「個人」というものにシフトしたこと。
一対一とか、手で渡すとか、直接のつながり、生の声、誰に向けたものであるのか、・・
なにか大きなものの一部として、とか、そこに乗って自分が社会に向かって、誰かに向かって滑りだすことも悪くない。
でもそういう誰かがすでに用意してくれていたものは、もしかしたらいつか崩れるかもしれない。
自分が手をかけて編んできたことなら解かれてももう一度やり直せるけれど、わたしみたいに無反省にただそのシステムを信じて進んできたなら、途方に暮れるだけだろう。
自分が自動的にのってきたシステムもひとがつくったことで、もちろん破綻もすれば自分がそこに手を加えることもできる、ということに気づいて、さらに自分はただの、そして自由な個人なんだ、ということに気づく。
結局はひとが動かしてきたんだし、わたしもそのひとのひとりだ、というように。
そしてその、ひとが動いてきたことの対象はやっぱり、いつだってひとだ。
もういっぽうの糸の端にはかならず、ひとがいるんだ、ということを。

何を信じてきたんだっけな、ということがたくさんのひとの意識のなかで問い直されている今。
急にいろんなものから切り離されて心細くなると同時に、でもそのとたん自分はそこにすくっとひとりきりで立っているんだなあという頼もしさとか開放された気持ちのようなものを、感じていたりするんじゃないかな。
だからこんな大変なときだけれど私は、そういう部分に限ってはなにか希望みたいなものを感じていたりする。

いつも自分以外のただの風景みたいに思える通勤中の背広のおじさんも、あんまり挨拶してくれない近所のおくさんも、つながりうる、ひとなんだよな、と思う。
被災地の困っているひとよりよっぽど顔がみえている身近なこのひとたちのことも「ひとだ」ってちゃんと実感できなくてどうして被災地のことが考えられるだろう。
私はいつも人見知りだったりお話がうまくできなくてひととなかなか仲良くなれず、別れ際に「もっと話したかった」って言われたりしてやっとそのひとと交流できるようになったりする。
ちょっとたとえが卑近すぎてどうかと思うけどそんな土壇場だからこそ滲んでくる情みたいなものって決して嘘ではないし、ないがしろにできない深さがあったりして、理屈じゃないなと思う。
ほんとうはもっとひと同士ってあったかくつながれるんじゃないかな。
テレビで、ネットで、たくさんのひとの声を見て感じたこと。

そんなことを考えつつ、でもこころだけじゃなくて実際なにかできないかな、ともやもやもするんだけど。