自立、責任、愛のこと

自分が相手にうまく愛を持って接することができないと感じているとしたら、それは優しさや愛情の不足なのではなくて、自分がしっかりと自立していないせいなのかもしれない。相手を気遣っているつもりでいても、自分が本当の意味で自立していなかったら相手のことをまっすぐ観察することができない。そのつもりがなくても、その気遣いはただ自己愛の裏返しに過ぎないのかも。
自立するという事は、自分に手をかけなくても済むようになるということだ。自分のことだけでいっぱいにならずに、周りの人に時間や手をかけることができる。
とても優しい人であるはずなのに、なんだか君は愛情が足りないな、と言われている人の話を聞いてそう思った。

以前の自分を顧みられるほどには以前より自分の足元の確かさが変わってきたことを自覚している。つまりそれほど長いことゆらゆらとしていたということで、自分の年齢を考えると我ながらがっかりしてしまうのだけれど。
ずいぶん長い間、自立することの真の意味がわかっていなかった。

私はいつでも自分以外のもの(知識とか前もっての準備とか他の道具とか)と一緒に「現在」に飛び込むことが苦手だ。身ひとつで、なんの先入観もなく、その瞬間に立ち会いたい。そして心を動かされたい。そこに危険があっても、生まれて始めて感じるほどの感動があっても、同じように受け止めたい。たとえそこに無知で飛び込んだことで自分の価値を低く見られたとしてもそんなことは私の大事に思うことに比べたらなんでもない。
振付が苦手なのも、語学が苦手なのも、たぶんそういう深層心理(意識しているから深層じゃないか…)が関係していると思う。撮ることが好きなのに、カメラを勉強するのがどうも心に引っかかってできなかったのもそれが関係している。
自分はいつでも成長しきらない、未熟もので、初心者であるのだということがそこにはつながる。

つまり、いつまでたっても世界に対して、他人に対して責任を持たないということ。
いつまでもただ受け取って、自分と世界だけの関係でそれを完結させて、どこかに還元させようとしない。
そういうのは責任ある大人のあり方ではない。

きっとゼロからものを作ることが苦手なのもそこに関わっている。
観察眼が足りないことも。
(こんな分析は意味がないことも知っているけれど)

私は人に親切だし、どんな人にでも公平に接したいと思うけれども、他人に対する深い思いが足りない気がいつもしている。それが引け目となって、人と接することを恐れるという悪循環があることも知っている。
これは自分の性なのだと覚悟を決めることもできるし、どうしても変えたいことならば、考え続けるしかないだろう。

Camille Boitelの『Fissure』にあったこの言葉を思い出す。

Fissure ne prévoit jamais rien, sauf l’imprévisible !