* 『木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし』

ブレッソンの写真は構図がすごいなあと思っていたけれど、自分が写真をより好きになったからか、その完璧さにあらためて驚いた。
写真の四すみすべてがおろそかにされていないような印象。
何度も微妙にアングルを変えて撮ったことが最後の部屋でわかって少しほっとした。

木村伊兵衛さんの写真は初めてじっくり見たのだけれど、そういう部分ではブレッソンとはまるで違う感覚の写真家さんだなあと思う。
構図よりもその場の雰囲気。
写真の年代を見ると、私の母が生まれた頃やちょうど写っている子供くらいの年の東京のものが多くて、それでその時代にぐっと入り込みやすかったのかもしれない。
見ていてその作品とは全然ちがうことがどんどん頭に浮かんでくるようなものがわりと好きで、木村さんの写真はそういうものが多かった。

無心に飯を食べている秋田の女性。
『楢山節考』(木下惠介版)の、お母さんがお嫁さんに炊いた白飯をたくさん食べさせるシーンをずっと思い出していた。
生活して、おなかがすいて、もりもりご飯を食べる。
いちばん簡単で必要なそんなことが、今の社会でこうして素直にあからさまになることって少ない気がする。
とても個人的な作業だから包み飾られることで表されることは多いのだけれど。

子供が屋台のおもちゃ売りのそばでお面を見つめている写真がとても好き。
その屋台には般若と、ひょっとこと、テントウムシ?みたいな女の子の顔の3種類くらいのお面しかない。
それからポンポン菓子、おもちゃの刀がいくつか…
すごく品数の少ない屋台。
男の子がそれをみつめているのだけれど、右足の草履がちょっと脱げかけているところも可愛い。
母が子供だった頃には今のようにはたくさんものの種類がなくて、でもそれは子供にとってはある部分では豊かなことだったのかなあという気がする。
今はたくさん葉っぱがありすぎて、どれが散っても目に留まらないもの。
なんでもないものから百通りのものを生み出す環境は、昔のほうがたしかにあったんじゃないかな。
でもこれも私がもう大人だからそう考えてしまうだけなのかしら。
子供にとってはどんなものも等しく空想のもとなのかな。

■東京都写真美術館
  木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし