楽譜を読みセリフを話し振付を踊るということ

今日の美生ちゃんのいとでんわへのコラムを読んでこのことばを思い出した。

音楽家としてやっていると、どうしても演奏のなかに自分というものを入れたくなってくることですね。しかし、音楽というものは、作曲した人がその曲の演奏のいちばんいい方法を知っているはずで、だから心静かに楽譜と向き合い、そこへ近づいていくべきなんです。 ~Anner Bylsma

それからもうひとつ。

構想は、宛も奔流の様に、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。然し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることは出来ません。後から後から色々な構想は、対位法や様々な楽器の音色にしたがって私に迫ってくる。丁度パイを作るのに、必要なだけのかけらが要る様なものです。こうして出来上がったものは、邪魔の這入らぬ限り私の魂を昂奮させる。すると、それは益々大きなものになり、私は、それをいよいよ広くはっきりと展開させる。そして、それは、たとえどんなにながいものであろうとも、私の頭の中で実際に殆ど完成される。私は、丁度美しい一幅の絵或いは麗しい人でも見る様に、心のうちで、一目でそれを見渡します。後になれば、無論次々に順を追うて現れるものですが、想像の中では、そういう具合には現れず、まるで凡てのものが皆一緒になって聞えるのです。大した御馳走ですよ。美しい夢でも見ている様に、凡ての発見や構成が、想像のうちで行われるのです。いったん、こうして出来上がって了うと、もう私は容易に忘れませぬ、という事こそ神様が私に賜った最上の才能でしょう。だから、後で書く段になれば、脳髄という袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです。周囲で何事が起ころうとも、私は構わず書けますし、また書き乍ら、鶏の話家鴨の話、或はかれこれ人の噂などして興ずる事も出来ます。然し、仕事をしながら、どうして、私のすることが凡てモオツァルトらしい形式や手法に従い、他人の手法に従わぬかという事は、私の鼻がどうしてこんなに大きく前に曲がって突き出しているか、そして、それがまさしくモオツァルト風で他人風ではないか、というのと同断でしょう。私は別に他人と異なった事をやろうと考えているわけではないのですから。 ~モーツアルト