Punica granatum



ざくろという果実をずっと怖いものだと思っていた。
ざくろ、というがさっと割れたような名前の響きはあの美しい姿にすごみのようなものを与えて、ちょっと色気のある大人のひとを見ると何か強く惹かれる反面避けたい気がすることのように、自分のこころの動きの理由がわからなくて怖さと勘違いしていたのだと思う。
そしてそれに輪をかけるように、祖母が「ざくろはひとの味がするんだよ」と私に教えてくれていたから、そんなことあるわけないよと思いながらもなにか触れられないもののように感じていた。
今考えると、祖母はあの鬼子母神のお話からそのことを信じていたようなのだけれど、それを聞いて育った私も私の母もざくろを食べず嫌いなままだったのでした。
今ではわたしはざくろを食べるけれど、母も祖母も今だなんとなく避けている。

子供の時代にすりこまれたことは案外大人になっても気づかぬところに何食わぬ顔で生きていて、改めて見つめ直すとどうしてそんなことをずっと信じていられたんだろう?と驚いたりする。
改めて意識に取り出したりしないぶん、大人になっても塗り直される機会のないまま持ち続けて、案外根強かったりすることもきっとたくさんある。
あるタイミングで笑って手放せることならいいのだけれど(ざくろのことのように)。
子供の時代に受けることはなぜあんなに大きくて、傾いでいて、ねじれた時間のようなんだろう。


(以下、Wikipediaより)
ザクロの実は、銅鏡の曇りを防止するために磨く材料として用いられた。
江戸時代の銭湯には湯船の手前に「石榴口」という背の低い出入り口があったが、これは「屈み入る」と「鏡鋳る」(鏡を磨くこと)とを掛けたものともいう。