送り火、残らないこと、からのセミ



友人から送り火のことを聞いてからずっとそのことを考えていた。
今年のお盆はやはり何か特別なもののような気がします。
春にはさくらを待ち望んだように、それから、きっとこれから秋のはじまりの日の空を見つける日や初雪の日、年が終わる時…その時にもきっと強く思い起こすことになるだろうこと。
水は清めるけれど火もそのやり方でおくり、浄化する。
そのことを考えるとわたしはいつもはじめて氷に触れてその冷たさにやけどをしたと勘違いした時のことを思い出します。

今度お寺で踊ることを決めたのもお盆という時期のことが頭にあったからで、どんなふうに踊ろうかと考えるためにしばらくひとりきりで本堂のなかで時間を過ごしました。
本堂は暑くて蝉の声に包まれていて、けれどただ完結してここからどこかはるかに繋がっているような謐かさがあって。
だんだん離れてゆく。
からだが滲んで浮き上がっていくような。
どこにもいきようがないのだけれど、皮膚と感覚が不釣合いになり、遠くで結ばれている不確かさ。
しんと自分にじぶんが戻ってくるなかでときどき揺れる緑を見ていた。


写真を撮り続けてみようと思ったのはただ純粋に写真が面白いからなんだけど、でももしかしたらわたしはずっと、残るものを望んでいたのかもしれない。
自分の肉体が今ここにあるということが唯一の手段であることはとても強く特別であるけれど同時にとても頼りないことでもあって、いつもからだのはかなさ、自分の存在のすぐ後ろにあるこころもとなさのようなことを考えずにはいられなかった。
踊りは火やひかりのようなものでもしかしたら水のように循環するものではなく、過ぎ去るいっぽうのものなのかもしれない。
それがとても尊くて、同時にかなしいような、いとおしくてもどかしいような。

ときどき夜ベランダで町を見下ろしながらこの檻を這い出したくなる。
からだがないと踊れないのにそのからだこそがここに楔を打ってとどめるもので、こころは遠くにも昨日にも行けるのに相変わらずわたしはここで黙っている。
ほんとは何も悲しいわけじゃない。
存在していることがあまりにも大きなことだからどうして抱えていいのかわからなくなるだけ。そのことがとても尊いから、圧倒される。
おおきすぎる愛情が怖いみたいに。


緑色の蝉が枝についたまま道に落ちていた。
蝉は細い枝に細い脚をしっかりとからませて落とされまいとしているように見えた。
飛んだり鳴いたりしていたこの蝉はからだだけ完全にぜんぶ置いて、何処にいっちゃったんだろう。
眼も艶々しているし枝も離していないし何も変わっていないのに。
翅がとても美しいと思った。
葉脈みたい。
からだも左右対称に見えて、虫はやっぱり植物に近い気がする。
数学みたいだし、数字そのものみたい。