はじめて踊りをはずかしいと感じたこと

自分の作品をやっとつくった、終わった、という興奮から醒めてみるといろんなことがなんとも恥ずかしい。 作品として未熟だったというところにその恥ずかしさがあるわけじゃなくて、ただ、自分が自分の作品を踊るということは全部まるごと吐露にすぎないわけで、何の混じり気もなくわたしの手持ちを広げてしまったわけで、そういうことが。 恥ずかしいからってもちろんやってよかったんだけど。 考えたら踊ることってあんなに個人的なことなのにそこにはとどまらなくて、なんか奴隷みたいだと思うことがある。 祈りとか願いみたいなものに対する。 そこではぜんぜん、個人ではありえない、みたいな。 でも古代の巫女ではないから、終わってみると責任も恥ずかしさも全部自分のものなんだよなぁ。 こそばゆい。 たぶんつくってゆく度に作品との距離は変わるのだろう。きっと。

今日はほんとうはイスラエルのバットシェバのダンサーにレパートリーを教えてもらえるWSのはずだった。 あれは、絶対に手にしたいという気がしていて楽しみにしていたんだけど、原発の心配でダンサーが来られなくなっちゃった。

代わりに、ではないけれど舞踏を見にゆく。 その方は40年も、鎮魂の踊りを続けているそうだ。 とても楽しみだし、とてもこころが張り詰めてもいる。