7月2日の日記

13:29
マルシェで1週間分の買い物をし、ご飯を食べつつ『ゴッドファーザーpart1』の続きを見終える。この時のマーロン・ブランドの年齢を見て驚く。確かに肌の艶や体の感じが若いのが見て取れる。前回(25年前)見た時には気が付かなかった。
Naturaliaで買ったココナッツチップスなかなか美味しい。この頃歯ぎしりのために歯が沁みるようになったので歯の強化にもなるといい。

17:06
友人の夫が酷く落ち込んでいるのだという。ご両親がともに安楽死制度を選んで亡くなったのだそうだ。全く健康だったし、子供にはひとつの相談もなく亡くなったらしい。
それだけでもにわかには受け入れがたいことだったのだけれど、それをきっかけに疎遠になっていたきょうだいと会った折り、自分が子供時代に過酷な虐待を受けていたことを思い出したのだそう。

17:58
家にいるとうっすらと寒い。レンガ造りだから温まるのがおそいから仕方がない…と自分に言い聞かせてきたけれどもう夏至も過ぎたしパリの夏は6月なので(6月が一番暑い日が多いと思う)もう家が温まることはないまま冬になるのではないか?

21:02
目的がないと我を忘れられない。
我のことばかり見てるから自分に甘い。

もう少し、伝えるための言葉の練習をしておくべきだったかもしれないと思う。
今の自分の変化はわたしのためには良いことなのだけど、自分で自分のことをどんどん孤立させているのも確かで、自分のためには頑張れない私のためには結果的にあまりなっていない。

21:53
時々、意図しないのに崇拝に近い感覚で近づいてきて、そのうち恐れるようになり、少しでも弱いところを見せると安心したように踏みつけてゆくような人がいた。ひとりじゃなかったから私のせいなのかと思っていたけれど、人との関係は私だけが作るものではないから、その人たちだけのせいでもない。

22:05
blueskyに移ってみたい気もするのだけれど、招待枠を譲ってもらっても自分がそこをどう運営したいか分かってもいないので気長にアカウント作成できるのを待つ。

26:02
昨日に引き続き静かな夜。
マルセイユやリヨンでは暴動が続いているみたい。
19区のあたりは荒らされてもいず至って静かだったみたいだから、やはり郊外の被害が多いのかな。

7月1日の日記

20:34
それでもTwitterから離れずにいたのは多様な情報や意見にアクセスする手段としてはまだ有効であると思ったからであって、閲覧ツイート数に制限がかけられてしまうのなら検索の場としてもブックマークの場としても用をなさない。
例えばまさにこの数日間はTwitterが緊急事態を知るための情報源でもあった。隣町で爆音がしたけれど何だろう?この道を暴徒が上ってくるのかな?どの程度身を守る必要があるか、など。そういう情報に、閲覧制限を過ぎてしまった私はもうアクセスすることができない。
誰かが作った場所なのだから誰かのルールに従うしかないのかもしれないけれど、インフラに近い使われ方をしている場を扱うことには慎重になってほしいとも思う。

20:43
今日は早々夕飯を食べたので久しぶりにまとまった時間がこんな気持ちの良い夕方にあって、なので滞っていた『世界の終わり…』のフランス語版を読む。まだ"古い夢”に初めて対面して戸惑っているあたり。

22:15
マストドンだと投稿の検索があまりできず情報を集めるには向かないかもしれない。もしかしたらbluebirdはその辺がTwitterに近いのかな。

25:09
『ゴッドファーザーpart1』を25年ぶりくらいに見返している。人物を積み重ねることで物語ができている。考えたら人生ってそういうものだ。描かなくてもそこに満ちているものをいつの間にかこちらがわが握りながら見ることになる。
いい映画だな。
part2に出てくるロバート・デニーロは世界で一番色気のある男の人だと思う。

25:32
今夜は静かだ。一発も破裂音が聞こえない。
流石に政府も対策をしっかりしいているんだろう。
もしくは土日で親の目が厳しくて子どもたちがおいそれと外に出られないだけかも知れない。

 

フランスで起こっている暴動から考えたこと

昨晩、うとうとしかけた頃に破裂音が聞こえてきた。変な時間に花火があがることはそう珍しくないのだけれどあまりにも長く続くのでこれはさすがにバカンスに入って浮かれている花火ではないなとツイッターで「パリ 花火」で調べる。ナンテールの警官による少年の射殺に関する暴動がモントルイユで起きているらしかった。風向きによっては人の声やクラクション、サイレンも聞こえてくる。(あとでわかったことだけれどこの時の音は隣町のモントルイユのものではなく、同じ町の警察署が襲撃された音だった)
暴動が北上してきて家にも火災の被害が起こったりしたら嫌だなと胸が騒ぎはしたが、その時はその時。夢もみずに眠った。

Twitterを検索すると色んな人が色んなことを言っている。だから移民を国に入れるべきではないのだなどという意見や、暴徒はイスラム系だという誤った情報を発信しているものについては自分の感覚とあまりにもかけ離れているので内心憤りつつも諦められるのだけれど、フランス在住だったり社会学者だったりジャーナリストだったりする人が偏った物言いをしているのを見かけると、おそらくこういう言葉が多くの人に信じられてしまうんだろうなという失望が襲う。
私もまだこの国のことはよくわからない。というか、どんなに長く住んだとしても私が知ることのできることは私が見たものだけだ(それは母国の日本にいたって同じこと)。私の生活圏から、経済圏から、文化圏から、交友範囲から見たものごとは限られているし、そこから見つめたものには必ず色がつく。「きっと色がついている」とどんなに意識したって、自分の視点を完全に捨てることはできず、想像すらその中からするしかない。
ということは逆に、私が感じていることとTwitterでの言説のズレをどちらが本当は正しい、と言うことだってもちろんできはしない。
けれど「自分の見たものにはバイアスがかかっているかもしれない」という意識を持ちながら話すか、そういう疑いを持たないでいるかの違いは大きい。
「自分の環境からしか見ることのできない」景色を「これがフランスです」と語ることの危険も、それを鵜呑みにすることの危険も考慮されず、ただ素朴にセンセーショナルなものとしてやりとりされている、その態度にため息をついてしまう。

2015年のパリのテロや、2020年のパンデミックによるロックダウンやワクチンの接種による行動規制、パリでの暴力/殺陣事件が起こるたびに、土地柄か派手に報道される。日本で起きたことだったらこんな憶測だらけのツイートは控えられると思うのだけれど、遠い場所の出来事だから現実味もちょっと薄いし、フランスに行ったことがある/住んでいる/専門家であるその人が言うならそうなんだろうと鵜呑みにされる。ある程度は仕方がないと思いつつも、その被害者を身近にして、SNSはなんと残酷なのだと呆然とする。

自分の意見をSNSで言う気持ちがどんどん薄れている。
まず自分の感じていることや信じていることをうまく言葉にできると思えなくなったし、かろうじて言葉にしたところで言いたいようには伝わらない諦めが先立ってしまう。
自分の言いたいことにはこの件に留まらない前提があって、それも含めてを理解してもらわないと伝わらないだろうと思う。それは言葉では到底伝わらないものだ。私の言葉が下手だから、ということ以上に、それは書き言葉で伝えきれるものではないから。例えば時々話したり、どういう感触で生きているかを知ってもらったり、普段何をどう見ているかに触れてもらう必要があるのかもしれない。なぜならそれは私の死生観とつながるものだから。
Twitterで私の言いたいことだけをぱっと言えば、きっと多くの人にとって受け入れられないものになる。
「人権は守られるべき」なんて単純な言葉では語れないと思うようになったし、metoo運動を100%良いものだとも思えない。(もちろん人権は守られるべきだし、metooが多くのことを助けて改善してきたので必要なことだったことは間違いない)こんなことを書いたらとんでもない人間だと思われるかもしれない。でも権利に乗っかって他の人の権利を潰している様を多く見かけるし、metooのようなものが却って被害者の立ち直りを阻んでいる側面があるように思われる場面に当たるたび、前提としては正しいように思えることが、正しくない結果を誘発することは多々ある、人間がそれを扱う限り問題は枝分かれするだけであって、ある段階で思考停止してしまうことには問題がつきまとう。
結局人間の根本が変わるようなことに働きかけなければ問題はすり替わって増えてゆくだけだ。

おまけ、油断する夕方、無花果ケーキ

11:35
マルシェへ。
玉ねぎ、にんにく、生姜、トマト、長ネギ、ベトラブ、人参、きゅうり、メロン、平たい桃、さくらんぼを買う。
ブルーベリーとレタスをおまけしてくれる。いつも何かとおまけしてくれる。これも戦略だし売れ残りそうなものをくれているのは分かっているけれど、それでも嬉しい。先週はひとつかみのミントをもらってミントティーを楽しんだ。

19:54
夕方が長いから19時になってもまだまだ一日は終わらないなどと油断してちらちらと揺れる葉影を眺めたりしてしまう。明るいけれどもう夜なのだからと日を閉じる準備をする必要はある、のだけどこの時期にしかこうして浮かれることもできないからまあ良いか。
しばらく空けてしまったけれど『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(フランス語版)を読む。やっと1/10くらいは読めたかもしれない。洗い出しが終わったところ。

21:29
少ししか読めなかったけれど、構わない。
まだ明るい。空が優しい色だ。
こんなにしょっちゅう夕焼けを見られる生活は、数年前には想像しなかったかもしれない。
夕飯は昨日の残りで良いので、解凍してラムに漬けていたイチジクでケーキを作ることにする。

ちょっとした日記

15:22
複雑なことを内包する話をしたり、細かな感覚の話ができたり、広くて射程の長い視野を持っているような風に話したり、想像力や客観性を持っているように聞こえたり、ある現象をうまいこと言葉に変換していたり、
言葉を扱うことがうまい人がいっぱいいる。
このひとは輻輳的にものごとを見ている人なんだなと話を聞いていると、あるところでぽっかり、というか何か根っこのところで抜けがあって、実は言葉によってそこに繋がっているように思わせてしまう(聞いている私も、話している本人をも)だけなんだなということがわかる。
「身体的な言葉」みたいなことをみんな言うけれど、身体的な言葉であると勘違いさせるのもまたその言葉のできることだ。
繊細で、ものの本質を捉えていて、大事なものを削ぎ落としすぎず持ったまま話している、ようにいっけん見せかけることはそんなに難しいことではない。そういうものばかりが転がっているからそういうものを見抜く目が育たず、誰にも見抜けなくなっているだけだ。だから本人もいつまでも気づかない。
文化人類学をやっている、哲学をやっている、芸術をやっている、という人だって同じ。
それらしいことを言えるからよほど罪深いかもしれない。

Twitter風の日記


21:40
久しぶりに音楽を聴いたら胸がいっぱいになってしまってしばしぼんやり

15:52
まともでいる、というのを自分のまともじゃない部分をひた隠しにすることだと小さな頃は思っていた。鼻歌も周りからは聞こえないと思っていた(口を閉じているから)のに実際にはみんなに聞こえていたように、巧妙に隠そうとしてもそれは増殖するばかりで、覆い隠そうという精神のせいで捻れてふくらんでゆく。
どうせ隠しても分かってしまうんだということを知ってから楽になった。そのままでいればいいから。

14:52
先日カチューシャがカササギの子を捕まえて食べてしまったせいで、今日もカササギが時々庭に来て警戒音を発している。カチューシャは気にする様子もなく平然とすたすた歩いている。結構神経の太いやつだ。寂しいからかまって、みたいな顔をしている時も信用してはならないな。

13:03
大切なことを共有してもらえるって、なんて嬉しいことなんだろう

12:41
牛乳を温めた時に浮かぶ膜がちょっと苦手。プリンの表面とかところてんの端っこの硬いところは好きなんだけどなー。
無花果を解凍。

12:10
今日はmocriを使ってタスクをなんとしても進める。おしゃべりはしなくてもくもく進めます。

11:19
(本を読むためのスペースを自分の家に開拓したい)というのもフヅクエの写真が流れてきてなんとも素敵な場所だったので、そうか真似したらいいんだなということを思ったというわけなのです。
引っ越しの多い家だったし大人になってからも借りぐらしのような時期が長かったからどうにも本格的な巣作りができない。いつも安定までの束の間、のような気がしてしまう。そろそろ定住してもいいよ。

11:09
家事は時間を決めてやるべきなんだと思う。そうじゃないといつまでもキリなくだらだらしてしまう。
時間のある日こそ、制限時間を設けるのがいいかも。そうして自由時間をつくるのだ。

9:33
遠足が始まる少し前から生活に手がつかず、遠足が終わって1週間経った今も自分を甘やかしたまま過ごしている。最低限のことしかしないと生活はうっすらと荒れてくる。

9:18
本を読むためのスペースを自分の家に開拓したい。いつも間に合わせの場所で何となく居心地が悪かったり暗いなあなんて思いながら読んでいるから、自分にとって心地よい場所はどんなところなのか知るようにしたい。カフェに本を持ち込んで試しつつ研究するのが良いかも。

ラジオ、自分のために動くのが苦手

11:37
ラジオに出演することになった。あまりフランスらしからぬ生活をしているから偏ったフランスのことしか語れないとも思うけれど気軽にやってみることにする。
時差の計算を間違ったので深夜遅くまで起きていないといけないのが心配、相談してみよう。さすがに3時ごろまで起きているのは大変。

11:57
自分始動で何かをするのはなかなか苦手で続かないのだけれど、誰かが巻き込んでくれると真面目に取り組める。自分の受け身な性質にはときどきがっかりするのだけれど、これだと思うことに巻き込まれにいくような行動を起こしておく、ようなこともできるのかもしれない。それには人に会って、話さないといけないな。