同級生がTwitterをやめる

Twitterでずっと同級生のような気持ちでいた方がついにTwitterを離れる宣言をされた。つぶやき(とはもうそこでは言わないのだろうけれど)を追いたい気持ちもあるから私もblueskyにアカウントを持ってみようかな…と揺さぶられたが、まあ今すぐに決めないでも良いかな。ちょうどウェイティングリストからの返事もまだ来ないし、SNS自体の付き合い方を考える機会とする。

何故か1万人以上からフォローしてもらっているが自分としてはそんな感覚はない。実感としてはその1/100も見てくれているかどうか。つまりTwitterを離れがたい理由は自分の言葉を伝えたいとか宣伝のためというよりは、読みたいつぶやきがまだそこにあるからにすぎない。
けれどその読みたいつぶやきさえまともに流れなくなってきているとしたら、ログインする意味もなくなってしまうんだよな。リストに入れているのにTLに現れないこともあるという噂が本当かは分からないけれど、確かに流れてくるTLは前と変わったような気がする。多くの方が人知れず離れていっているのかもしれない。それともやはりそんな気がしているだけかもしれない。
何の手も加えられないから時々見に行って出会うつぶやきを読むのが楽しかったのに、そこに手が加えられているのであれば同時性とか偶然性、自分が選んだ上での、のようなものが失われるわけで、そのことにはかなり大きくがっかりさせられている。

ここ数年ネット上の情報との付き合いのなかで疲弊したり、味わわなくていいはずの傷を負ったり、膨大な時間を失っている感覚に(自分に対して)嫌気もさしていたのだけれど、なんだか「もういいかな」という思いがありつつも「でもTwitterは好きな人もいるしお知らせもできるしこつこつ作ってきた世界だし」と離れ難かったのに、その細い綱をふつっと切った感じ。
きっとTwitterに対する自分のしがらみを離すつもりになったんだろう。
Twitterのやり方にはあまり賛同できないので参加しないという態度をとる選択肢も頭に入れつつ、でもTwitter的なものとうまく付き合うためのほんの少しの微調整をしていく時期なのだという気がする。
何かしらの行動をするかもしれないし、しないかもしれない、やりたいように引き続きやるのだけれど、でもたぶん何かを気にしながらツイートするようなことは過去のことになりそうな気がする。
こう書くと私がTwitter中毒だったみたいだけれどそういうわけではなくて、でも自分の大事な場所のひとつだという気がしていたことは確かであって、それが今ではほんの少し遠い位置から眺められるようになったというか、かといって夢から覚めた、というほどのなにか大きな気付きがあったわけでもなく、ここ数年で少しずつ少しずつがっかりしたりうんざりしたりしていたことから、うまい付き合い方をしてゆこうじゃないか、と深呼吸し直せたという感じかもしれない。

計算できる読書時間、庭を縦切りにする

『La fin des temps(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)』、計算士のライバルたちとやみくろが結託しているという話を聞くところまで。
どんなに頑張ってもこれ以上速くは読めないのであとはどのくらい読んでいられるか(自由時間の都合と頭の体力の都合)によって進み具合が決まる。
日本語の本でも読む時の速さはだいたい決まっている。3段階くらいあるかな。つるつると読めてしまうものと、染み込むように読むものと、あとは難しくてたじたじとかじりつきつつ読むものと。
村上春樹の文章がふと頭に蘇ってくるから、子供時代に繰り返し読んだものは忘れないんだなあと感心する。


読むのに疲れて椅子の背に頭を載せて空を見ていた。
夕方になって(と言ってももう8時だが)雲霞が夕日にきらきら照らされている。その上を、または私の顔のすぐ近くをそれよりちょっと大きな虫が勢いよく飛んで、引き返す。体の小さな鳥がどこからか空を遮っている枝にとまり、今度は鳩がやってくる。その間にもいろんな虫がいろんな軌道を描きながら庭の上空を行ったり来たりする。空のうんと高いところをなにかの鳥が飛んでいる。ゆっくり、一日の終わりみたいに。気づくとはるかに飛行機が雲を引きながら交差する。
空にはいろんな層があって、いろんな生き物が棲み分けをしたり、一緒にだったりしながら、行き交っているんだな。
メレンゲみたいな甘そうな色をした雲がゆっくり空を覆いはじめる。

金色の毛並みと骨、VISA、Fabrice Hyber La Vallée

『La fin des temps(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)』を読んでいる。
まとまった時間が取れないと本を読む心構えができないこのごろなので、フランス語の本だと余計にそうで、ましてやこの本は分厚いので歩きながらとか寝転びながら読むこともできない。つまり、なかなか進まないことの言い訳なのですが。
壁の世界のパートの出だしはこんなに印象的だったっけと久しぶりに思い出して、先日はそれだけでぱたんと本を閉じてしまった。あの美しい町。金色の毛皮に何度指をうずめ、乾いた骨を辿ったことだろう。
やっとそれぞれの世界のはじまりを(つまり2章分)読み終えた。先は長い。


メーデー。
町はデモ以外は静かだし、雨も降ったりやんだりなので、閉じこもる口実ができたようで嬉しい。

先週末、28日は滞在許可証ができたよと移民局から連絡があったので取りに行った。今まで必要のなかったレセピセも提出書類に含まれるようになったらしく、2往復するはめに。自転車で30分、ただの30分ではなくてパリでもしかしたら一番急なのでは?と思われるような坂を登る必要のある帰り道を2回も通ったのでへとへとであった。その坂、自転車を押すのにほとんどハンドルを空の方に押し上げるような体勢になる必要がある(40%割増で言ってる)。
帰宅してから、お声がけ頂いていたインタビュー(かな?)。私が今までに体験した不思議な話や怖い話、夢の話を聞いて下さった。初対面とは思われないほどリラックスしてわくわくしながら話すことができて嬉しかった。「この人なら大丈夫だ」と安心した人に対しては急に壁をはずして人懐こくなれる。なぜ「大丈夫だ」と思うのかはわからない。説明できないけれどとにかく。
壁をはずして人懐こく、とはどういうことなんだろうとふと思ったけれど、たぶん、ここでの自分の役割を定めて存在しよう、みたいな余計なことを考えずに素直にいられるということだと思う。
もしかしたら私の変な話を活字にしていただけるかもしれず、とても楽しみ。


昨日はカルティエ財団現代美術館でFabrice Hyber La Valléeを。

Fabrice Hyberさんは自分の農場をまさに文化の実験場のようなもの*1に耕していっている実践の方でもある。
絵も好きだったけれど、その実践や、そこから生まれた思考をもっと知りたかったなと余韻の残る展示だった。
『動いている庭』のジル・クレマンを思い出す。

*1:cultureはフランス語のcultiver(耕す)と関係がある

発言する夢

自分が高校の授業中に長々と発言している夢をみた。
言葉が記号であり伝達の手段であるならばどうして私たちのコミュニケーションはうまくいっていないのか、ということに対して気づきがあって、それをみんなの前で懸命に話すという夢。

どういう発言だったかというと…
言葉を個人レベルで捉えると、赤ちゃんの時にはぼんやり曖昧に理解してしていたものが、成長するにつれて明確になってゆくといったイメージがある。ひとつの言葉は様々に分岐もし、理解の粒度も上がり、自分の感覚にしっかりと刻み込まれたような。
でも社会から個を見れば、赤ちゃんの時にはその語の単純な面を共有するしかなかった、つまり互いの理解が単純だったのに、個々が成長するにつれてそれぞれの体験を通して同じ言葉にもそれぞれの色合いが獲得される。メタ視点から言葉というものの全体を見ると、むしろ人の数だけぼんやりと拡散、拡大している。
もちろん言葉は記号としての役割を失ったわけではないから、意味合いの核は共通しているのだけど、私たちは個々に、共有する意味の外側に広がった滲みを体に染み込ませながら対話している。
個人からしたらその言葉の定義はクリアになっているから、その言葉を使えば他人にも話が通じるはずだと思う。
でもその実、成長段階でそれぞれに言葉に関する体験によってそこにくっつけたりまとわせたものを使ったもの同士がコミュニュケーションを取ろうとしているので、そこに齟齬が生まれる。
…というような話。

…いや、ぜんぜんうまく書けない。
起きてすぐに書いたメモがscrapboxにあるが、それを読んでみてもさらにとっちらかっている。
私の中では明確な繋がりの感覚があるのに言葉にしようとすると恐ろしく遠回りをしないといけないし、前提をまず共有しないといけないし、文章では無理みたい。
根気よくおしゃべりを聞いてもらえれば、やっと何を言いたいのかぼんやりと掴んでもらえるかもしれない。

夢から覚めて、私は子どものころ実際に、授業中関係のないことを発言していたことを思い出した。もちろん全く関連のないことを言いはしないのだけれど、先生の言葉から思い出したことやみんなと話してみたいことがあったら手を挙げて発言していた気がする。授業中に先生に求められたことや直接的な答え以外を発言する人って私の他にいただろうか。いや、いたとしても私にとっては別に変なことではないため、印象に残っていないだけかもしれない。
多くの先生たちは面白そうに私の話を聞いてくれたから、いま考えたら良い先生にあたったなと思う。
今も、関係ないことを言ってしまうのは変わっていない。誰かの作品(本とか動画とか絵とか)に対しての直接の批評は全然できなくて、代わりにそれに触れた時に自分の中で何が起こったかを共有することのほうに力を入れてしまう。

フランス語に苦労することで、言葉について、その獲得過程について考える機会が増えた。
私が昔みたいに毎日日記を書かなくなった、書けないと思うようになったのは、その過程で今まで自分が言葉に対して持っていた浅はかな幻想が剥がれていったからだろうと思う。

図書館と図書館の話と迷宮の話

ページが抜け落ちてしまった図書館の本を返しに行った。多分直せると思うからと受け取ってくれた。専門家の手に渡ってひと安心。これまで何度も修復されているようなので壊れたのは私のせいだけではないと分かっているけれど、本が解けてしまうのは胸が痛む。
ほっとした勢いで別の本を借りる。自分でも無謀だと思うのだけれど『La fin des temps』、つまり『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。新刊を読む前にもう一度復習しておきたくて。数十年前に何度も読み返しているおかげで今のところ辞書を片手になんとか読めているが、期限内に読み終えることはできないだろうな。
まだやっとエレベーターから出たところ。

ゲーム実況のYouTubeを見ながら、今のRPGはまだ行ったことのない部屋の宝箱まで地図に表示されちゃうんだねという話をする。新しい部屋には何があるかわからないからどきどきするんじゃないのかな。見逃しがないように、謎のヒントを探して何度も行きつ戻りつ苦労するのが楽しみなんじゃないかと思うのだけれど、予めもう手順が示されていてそれ通りにコントローラーで操作するだけ、そうしていればなんとなく次のボスを倒すだけの装備も整いレベルアップもできる…そんな敷かれたレールの上をただ進むような作業は面白いかな。流行りの映画みたいに、一度プレイすればもう二度とやり直したりもしないのかもしれない。
苦労や、理不尽のようなものから逃げてはいけないなどと言うつもりはないけれど、生きていたらどこかでそういうものを味わわなくて済むはずがない。もしそういうものに出会わなくて済むとしたら、済むと感じているとしたら、どこかにしわよせがいっているだけだ。

豆腐が余っているので今日はひき肉やいろんな豆や穀物を混ぜてハンバーグにする。

『砂の子ども』、家の一部になる

やっと体調が回復した。
なんとなくの不調が続くとだんだん「具合が悪いような気がしているだけかもしれない」「休むことに慣れてしまっただけかもしれない」と思い始めるのだけれど、こうして元気になってみるとわかる。確かに具合の悪い一週間だった。

久しぶりに湯船につかりながら本を読みたかった。kindleで読むこともできるけれど紙の本が良かったので本棚を眺めると『砂の子ども』が読みたいようだった。一度読んだ本だったけれど、手がそこに向いたのだからそのようにしてみる。
ゼラニウムやベルガモット、ラベンダーやティーツリーオイルをお湯に混ぜ込みながら体を伸ばして、ぼおっとするのに飽きたころに本を手にとる。
女性に生まれたが男性として生きざるを得なかった人物の苛烈な人生を「講釈師」が物語るという、モロッコを舞台にした話。
始めのページからふと「夢読み」のことを連想したり(これはもちろん村上春樹の新刊が話題だからなのだけれど)、埃をかぶった陽のささない部屋の匂い、めらめらと体を這いのぼる視線のイメージが今まさにからだに輪を描きながらにじりよってくるお風呂のお湯とリンクしたり、シェフシャウエンの丘の上から聞いた礼拝の時間を報せる放送を思い出したり(そのくぐもった祈りの声はまるで、窪地の中に溜まった青い家々をゆっくり浸してゆくようだった)。
物語は本だけに宿るのではなく、語った、聞いたものの身体を浸し棲みつくものなのだということを思う。

「講釈師」は主人公の物語(物語が書かれた日記)を自分のものであるように感じる。

この秘密の本は、短いが熾烈な人生を送った人間が、長い試練の夜を経て書いたものであり、岩の下に隠され、呪いの天使によって守られていたものなのだ。友よ、このノートは、回し読みしたり、人に与えることはできない。純粋な精神の持ち主だけが、読めるのだ。心構えのできていない者が、不用意に読めば、ここから発する光で目がくらんでしまう。おれはこれを読んだ。そして、そういう人々のために、読み解いたのだ。皆さんは、おれの夜と肉体を通じてでなければ、これに近づくことはできない。おれが、この本なのだ。

普段軽々しく多くのものに触れ、いつのまにかそれが自分を通過するに任せてきたが、そんなことが平気なわけがなかったのだった。もしかしたら一生かかってその人のなかにひたひたと溜まっていったものごとを、近頃の私は軽率な態度で触れて、自分の中に生まれた揺れの行き先を見届けぬうちすぐさま口に出して誰かと共有できたような錯覚をする。
今の私にはたくさん読みたい本があって、それを読みきれないという考えにほとんど溺れかかっている。けれど、本当ははこんな風に、これしかないと思うようなものと向き合うべきなのだと知っている。愚直に、私にこそ、私にしかそれはできないと信じて、取り憑かれてしまわなければならない。わたしはこれを肉に刻みたいし、それで変わってしまっても構わないと思うようなものごとへのひたむきさには「私なんかが」とか「こんなことをしていることは正解なのか」なんていう考えは縁がない。

誰にも明かされずに、沈黙したまま土に埋められるものが、確かにいまの世界にもあると思う。
十年前ならそういうものもすべて私は知っておきたいよと思ったかもしれない。または、そういう喪失を感傷的に見送ろうとしたかも。
8ページしか読んでいないけれど、今日はこれ以上読み進めなくてもいい。

お風呂にお湯を浅くはって、寝転んで耳まで浸かるのが好き。
そっと沈めば耳の穴のところにはちょうど空気が抜けないまま溜まって、簡単には水が入ってこない。
水に耳を入れた途端に壁の中の水や空気の流れが、階下の人の声が、面している道路を走る車の振動がくっきり聞こえるようになる。普段は気づかないけれど、私は家に包まれているし、壁や床や天井を通じて振動を共有しているのだ。水に入ることによって建物の床や壁の一部に入り込む。
隣人が何を話しているかまではわからないし、私の興味はそこにはない。道をいっぽん挟んだところにあるパン屋さんの会話が聞こえたりはしないかと耳を澄ませるけれど、当然そんな遠くの音は聞こえない。ではいったいどこまでの音が聞こえているんだろう。耳を頼りに歩いて行こうとするけれど、やっぱり触れることができるのは家に触れているものだけみたいだ。
私は普段立っていて床から離れているから、もっと耳が床に近い猫や犬は、地面を通じていろんなものとつながっている感覚を普段から切らさずに持っているのだろうな。

守り人

眠り続けている。

せっかく外に出られないのに本も読むことができないなんてひどい。
でもそろそろ起きていられるようになった。
友人が訪ねてきてくれていて(でも伝染すわけにいかないから私は寝たままでいる)その声に起きたのだけど、私だけ閉じこもっているのを不憫に思ったのかカチューシャが寝室の扉の前で細い声で何度も鳴く。珍しいのでちらっと開けてあげると入ってきて足元に丸まった。暴れん坊だし噛むんだけど、弱いものは守るタイプなんだな。