発言する夢

自分が高校の授業中に長々と発言している夢をみた。
言葉が記号であり伝達の手段であるならばどうして私たちのコミュニケーションはうまくいっていないのか、ということに対して気づきがあって、それをみんなの前で懸命に話すという夢。

どういう発言だったかというと…
言葉を個人レベルで捉えると、赤ちゃんの時にはぼんやり曖昧に理解してしていたものが、成長するにつれて明確になってゆくといったイメージがある。ひとつの言葉は様々に分岐もし、理解の粒度も上がり、自分の感覚にしっかりと刻み込まれたような。
でも社会から個を見れば、赤ちゃんの時にはその語の単純な面を共有するしかなかった、つまり互いの理解が単純だったのに、個々が成長するにつれてそれぞれの体験を通して同じ言葉にもそれぞれの色合いが獲得される。メタ視点から言葉というものの全体を見ると、むしろ人の数だけぼんやりと拡散、拡大している。
もちろん言葉は記号としての役割を失ったわけではないから、意味合いの核は共通しているのだけど、私たちは個々に、共有する意味の外側に広がった滲みを体に染み込ませながら対話している。
個人からしたらその言葉の定義はクリアになっているから、その言葉を使えば他人にも話が通じるはずだと思う。
でもその実、成長段階でそれぞれに言葉に関する体験によってそこにくっつけたりまとわせたものを使ったもの同士がコミュニュケーションを取ろうとしているので、そこに齟齬が生まれる。
…というような話。

…いや、ぜんぜんうまく書けない。
起きてすぐに書いたメモがscrapboxにあるが、それを読んでみてもさらにとっちらかっている。
私の中では明確な繋がりの感覚があるのに言葉にしようとすると恐ろしく遠回りをしないといけないし、前提をまず共有しないといけないし、文章では無理みたい。
根気よくおしゃべりを聞いてもらえれば、やっと何を言いたいのかぼんやりと掴んでもらえるかもしれない。

夢から覚めて、私は子どものころ実際に、授業中関係のないことを発言していたことを思い出した。もちろん全く関連のないことを言いはしないのだけれど、先生の言葉から思い出したことやみんなと話してみたいことがあったら手を挙げて発言していた気がする。授業中に先生に求められたことや直接的な答え以外を発言する人って私の他にいただろうか。いや、いたとしても私にとっては別に変なことではないため、印象に残っていないだけかもしれない。
多くの先生たちは面白そうに私の話を聞いてくれたから、いま考えたら良い先生にあたったなと思う。
今も、関係ないことを言ってしまうのは変わっていない。誰かの作品(本とか動画とか絵とか)に対しての直接の批評は全然できなくて、代わりにそれに触れた時に自分の中で何が起こったかを共有することのほうに力を入れてしまう。

フランス語に苦労することで、言葉について、その獲得過程について考える機会が増えた。
私が昔みたいに毎日日記を書かなくなった、書けないと思うようになったのは、その過程で今まで自分が言葉に対して持っていた浅はかな幻想が剥がれていったからだろうと思う。