内側からみることと、内側をみたいと思うこと



カメラを構えてそこにいるとき、カメラを構えていないときよりもいくぶん存在していることが楽かもしれないということに気がついた。
自分の立ち位置を「撮るひと」と決めてしまえば揺れ動く距離も気詰まりじゃない。
“自分がどうあるか”ではないところでものを見ることができるのかもしれない。
いつも少し私は自意識過剰なんだと思う。
だから完全に主体を譲ることで穏やかに息をつくことができる。
ひとを撮るっていいなと思う。

けれどそれだけではこころのつりあいを取りきれないことも確かで、わたしにとって踊ることと写真とはうまい具合に呼気と吸気になっているんだろう。
内側からみることと、内側をみたいと思うこと。