鬼海弘雄さんの写真展/うしろ姿、姿をうつす

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鬼海弘雄さんの展示が最終日だったのでSaint-Germain-des-Présまで。 人物の写真と下町の家の写真が交ざって展示されていた。 この抜粋は見るひとになにを思わせるのだろう(何を感じさせようとしているのだろう、ではなく)と考えながら見ていた。

パリに来てから、日本作家の作品や日本の色のある作品を見る時、果たしてこれは日本人以外にはどう受け取られているのだろうと考える脳みその分量が増えた。 私は日本人であるということ以外には、その作家/作品との共通項はない。にも関わらず、果たしてこの作品の面白さを外国のひとは正しく受け取って「くれる」のだろうか、というように、勝手に自分がそちらに含まれたかのような考え/心配がよぎることがある。変なものだ。 これがために、時々自分の目にフィルターがかかることがあってちょっと邪魔なこともあるし、けれど今まで持ったことのない視点を借りて触れにゆく範囲が拡がったとも言えるし、ともあれ足元がぶわぶわと、よく動く。

会場の、最後の写真に足が止まった。 柵に男の子がぽつんと安心したように座っている。 向こうには公園か広場か野球場か、とにかくひらけた場所が続いていて、カメラはその手前の柵に座る彼の背中をとらえている。 左足を投げ出すかたちで柵の上に載せ、からだの力が抜けた穏やかな様子でどこか遠くを見ている。 はじめ子どもだと思ったその背中は、よく見ると年老いた男性だった。左足は義足だった。 いつもその場所に座っているのだろうか。わからないけれど、彼からは硬さが感じられなかった。柔らかなままのからだでそこにいて、思考もニュートラルなままで、心許ないような好奇心に似た新鮮さでそこにいた。義足の左足がこつんと固く伸びたまま柵に伸びていて、何を見るでも、何を目的とするでもなく、その固さとやわらかさがどこで繋がれているのか見極められないような不思議な感触で、私はいつまでもその写真を見ていたかった。 はじめに子どもだと思ったことも影響しているのだろう。 子どもであり、老人であり、ひとりぼっちでありながら不安はなくどこにも駆け出さず、何かを見つめていながら何も希求してない静かさ、ぴんと伸びた足先の方向とからだの軸の、ねじれているのにとても自然な接続、人形のようだけれど雄弁に生きる背中であり、かといって何かを大袈裟に語るでもない後ろ姿。 すごくすごくふしぎだった。 自分がなにを感じているのか、捉えられないのに、惹かれる。

今まで私しかいなかった会場に何人か日本の方が入ってきて、ひとりは鬼海さんご本人だった。 鬼海さんを知ったのはルーニィの篠原さんが写真集を見せてくださったからだったので、そのことを少しお話した。 その写真を見ることでことばではない海に浸っていたから、なかなか帰ってこれず、フランス語の直訳のような自己紹介をしてしまった。

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衣装を探したかったこともあり、マレに移動。 いくつか見た中でHernan Basの作品がとても気になった。 名指されない危機感のような、なんだかざわざわする、熱帯の植物みたいな、終わらない戦争みたいな、けれど匿名で、どきどきした。 ユニクロでLEMAIREとのコラボの綺麗なシャツを買った。 白で、すごくシンプルなシャツ。 昔わたしは白い服(とくにワイシャツ)を着るとオスカルか王子さまみたいになんだか眩しくぴかぴかしちゃって恥ずかしかったのだけれど、なにが変わったのか、今は大丈夫。