ともだちから教えてもらったこと



話を聞いて、変わらなければいけないのは私も同じだ、と思う。
それを許すわけではないけれど、どうしても今のわたしは未熟なままの自分に手を焼きながらしかまわりと付き合ってゆけない。
もどかしい、どころじゃなくて本当にがっくりくることもある。
色んなことを少しずつ間違ってきちゃったんだろうなと思うと、その膨大な積み重ねをいったいどうしたらいいのか途方に暮れるしかない、ような気がすることがよくある。
でも今日リハーサルとリハーサルの間に住宅街を肉まん食べながら歩いていて、今までの間違い全部を正さなくてもいいじゃん別に、とすかっと開き直った。
もちろん先延ばしにしてきてしまったことや間違いが継続していることは正さなきゃいけないけれど、あとは全部をやり直しできるわけではないんだから。
今持っていることにもう一歩踏み込んで、丁寧に聞くことをこころがけて、ほんとうに見る、ようにしたらいい。
そうしたら大きな山の前で動けなくなって嫌悪するだけではなくなるし、目の前のことに集中できる。


自分を知ってもらうこと、見ていてもらうことがどれだけ助けになるかを思った。

私の興味は長いこと人間にはなかったんだと思う。
…というとちょっと違うかな。
自分に覆いをかけている分、踏み込ませない分、自分も踏み込んではいけないと思っていた。
ほんとうはとても覗き込みたいんだけど、人間は生ものだからいつも思う存分かまわせてくれない。
わたしも全部流れ出しちゃうくらいにやわらかくなっちゃう。
そんなふうにできるようほど私はぴっと一貫していない。
揺れ動いていてかたちもどんどん変わっていて、だからとらえるものも影響を受ける対象も4次元ポケットの中みたいに渦を巻いている。
自分を説明できないのにあなたを説明して、とはいえない。
あなたの何が私をひきつけるのか言えないのに、私を見てほしいとはいえない。

だから私の興味はいつもものごとの断片にあった。
それは友達のなかの何かであることももちろんあるから「人間に興味がない」ということとはちょっと違うと思うんだけど、でもそれは時間のなかで積み重なっていかなかった。
瞬間しゅんかんでこころのどこかに色をぺたんとおいて、しばらくして振り返るとその色は自分から遠いところで留まっている。
色褪せないその時間まで遡ってもう一度てのひらで包むことはできる。
でも一緒に持ち帰ることはできない。


なにも置いてゆけない、と思っていた。
捨てるのは悪いものだけで、私の過ごした時間に悪かったものなんかそうそうない。
だから全部持っていくんだ、持ってゆけるもの、というふうに。

でも空気の入れ替えもせずただただ全部ひきずっていてはそのうち倦む。
多分年々デフォルメされてゆくんだろう。

見ていてくれるひとがいると気付いて、認めてくれる友達がいると気付いて、そうかー、私もちゃんと見たかったんだよ。素直にぜんぶひっくるめて大事なんだと自分に許したいんだ、と分かった。
ずっと私はひとのあいだにいて何を学んできたのかな。

この何年かで、固くせき止められていたものが徐々に流れを取り戻している気がしている。