お寺ダンス終わりました

お寺でのダンスパフォーマンスが終わりました。
終わってからざあっとからだから抜けたものが戻るのに時間がかかった気がします。

今回は友人が誘ってくれて嬉しかったから「踊るよー」って引き受けたのですが、この時期にお寺で踊ることができるということの中にはわくわくと少しの緊張感もありました。
何度かお寺を訪れて、まわりの町をひたすら歩いたり、川べりに降りたり、お墓の石と一緒に太陽に焼かれたり。
実際にどういうふうに動くことができるかということはもう生の時間にまかせるしかない。それが一番だと思ったけれど、それにしてもそこにどうやってぶつかればいいのかを知りたくて、本堂に1時間くらいこもって蝉の声を聞きながらすべてを決めました。

ほんとうは、駅にお迎えに行くのも、もっとちんどん屋さんみたいなことがやりたかったのです。
着物もすごく派手に着崩してお化粧も白にピンクみたいにして、鳴り物もって。すっごく高い下駄を履いて。
商店街とももうちょっと密になっておいてチラシを貼らせてもらったりしたかったのですが、なかなか直にそれをお話しにゆける時間もなくて残念でした。
踊りもあんなに真剣に踊る前にあれやこれや、と考えていたのですが、シンプルにシンプルに、としていったら生真面目みたいなものになりました。
またそういう楽しいことは今度。


鈴の音がとても気持ちよかった。
踊りながらときどき、自分から遠く離れてその音を聴いているような気持ちになりました。
外からの蝉の声とさっきまでのお経、鈴、ときどきおしゃべりをしてくれるお客さんの小さな女の子の声があの場所にこもるでもなく、すぐに抜けてゆくでもなく、いくつもの層になって漂う。
それから私のからだのなかにはずっと、送り火のことがありました。
送り火や、夏の花火のようなこと。
何を込めて踊ったのですか、と訊かれてやはり言葉にすると魂に対してのなにか、ということになるのだけれど、あの時間のなかにいて私がなにをしていたかというとやっぱり、ただその場所であの時間を生きてる、というようなことなのかなあとおもいます。
その生きていることの中にはただ現在の存在だけじゃなくて、すべての時間の生(つまり死にも)つながっているのだという気がする。
もちろんそんなたいそうなことを私の踊りが表せているとは思わないのだけれど、私があのときに全身に受けていたのはそういうことだったのだとおもいます。


誘ってくださった新納さん・下平さん、踊らせてくださった大蔵寺の和尚さん。
サックスを吹いてくださったFさん、鈴を鳴らしてくださったみなさん。
映像をとってくださったマスナリさん。
ありがとうございました。


ダイジェスト版をさっそく作成していただいたので、のぞいてください。
真面目にご覧になるとはずかしいので、蚊取り線香のCMぽいなあ!と見ていただくと丁度いいかもしれません。