写真は皮膚



ルーニィに11月の個展についての相談をさせて頂きに行った。
撮りためた写真の中から選びながら、自分が写真でどういうことをしたいのかなということが少しはっきりしてきたような気がします。
何をしたいかというより、自分にとって写真はどういう役割で、どんな場所で接しているのかな、というようなこと。

見ることってとても個人的なことだなぁという気がします。そんなことを言ったら五感にかかわるすべては個人的なことに決まっているのかもしれないけど。
でも食べるとそれはなくなってしまう。聞くことや匂いはそんなに選ばなくても入ってくる。触れることと見ることは自由に選べるし、何だかひっそり行うことができる。そういう意味でとてもひとりきりな行為な気がします。
そんな自分だけの行為を写真はわざわざ大っぴらにする。それはいったいどういうことであるのか。
子どもがお母さんに「ねぇお母さんこれ見て見て」って言う行為の延長にそれはあるのかもしれないけれど、表現みたいなことをしようと考えているのならばそれで終わってはいけないのでしょう、おそらく。

からだにはそこに在るだけで何か特別なものがともないます。
それはきっと受け取る側も発しているひととだいたい同じ仕組みを持ったからだを持っているから、というわりと物理的な理由に拠る気がする。
でもそんな単純なことが案外大きくて、踊り手のからだの動きは見ているひとのからだを多少なりとも動かすんだと思います。
理由は単純だけれどその実際はとても微細でデリケートなもの。
そこを疎かにせず受けとめて掘り出して、という作業を大切にするとともに、生身であるという強みにあぐらをかいてはいけない、ということも常々思っている。

もしかしたら、写真自体にはそういう直接的な働き掛けを期待することはむつかしいのかもしれない、ということもだんだんわかってきました。
写真はモノです。
写っているのも、どこかにあるなにか、モノです(人物であろうと)。
モノはそこにあるだけでは何も語りはしない。
語りはじめるとしたらそれを誰かが見た瞬間から、そこからしかはじまらない。
じゃあ私が撮った写真がただのモノであってその時点でわたしの想いを何も受け継がないのだととしたら表現なんて成り立たないじゃないか、ということも考えました。
でもそれは間違いで、写真を見てくれるひとはそれをただのモノとして見るわけではなく、誰かが切り取ったものとして見る、誰かが見たという事実が橋渡しをしている。そのことがもうすでに違うのだし、なんだ、表現ってただそのことじゃないの。ということにやっと道筋ができました。
自分のからだが直接表現につながっていることに慣れていたわたしにとってこれに気付くまでにはずいぶん時間がかかったのだけれど、こんなこと今までいっぱい本で読んできたことだから鈍いなあとがっかりします。

そしてそれはまわりまわって、写真というモノ自体は皮膚に置き換えられるのではないか、ということを考えるきっかけにもなりました。
からだはたえず世界と触れ合っている。空気や服やモノに。ひとに見られるということに。
踊る時、私はからだで見ているような気がします。
だったら本当に見ているこの目だって、皮膚なんだなぁと。
わたしが見たモノを写した写真の表面だってその時の世界をうつしとった皮膚、と言えるのかもしれない。
写真はちゃんと、わたしとも世界とも受け取るひとからも密接な、接点であるんだなぁと。


いつまでも入り口でうろうろしている自分が歯痒いですが、勉強したり考えたり、動物的に飛び込んでみたり、いろんな方法でこじ開けるしかないなと思います。