埋める/うめる



ものを地面に埋めるときの「埋める」と、なにかを満たすときの、埋め尽くす、みたいなかたちで使う「うめる」が同じ“埋める”という言葉・漢字で表されることにずっと違和感があった。

前者の「埋める」を考えたとき私は埋められるそのもののことを考えていたんだと思う。
空間がつくられ、土にとりかこまれ、隠され、包まれる。
埋め尽くす、につかう「うめる」のように広い空間をすみずみまで満たす、行き渡る、という感触がそこにはない。
小さな塊が、小さな場所にぐっと収まって、手の届かないところに行く。
そんなイメージ。

でももしかしたらその考え方でいっても、掘られた穴のような空間を埋められるそのものが充填する、というような意味合いのことばなのだと考えればいいのかもしれないな。
だから小さな塊が小さな場所にぐっと収まる、というイメージのままでも十分で、それは埋めるためにほったその場所をものが満たしていることになる。(よくわかってないから文章がうろうろしちゃう)

そんな納得もおとずれたけれど、やっぱりもう半分の感覚では、なんかうまく噛み合わないな。
「埋める」ということばが私のなかで特化しているのかもしれない。
埋めるのは土のなかで、土のなかにうめるものは死にかかわりのあるものばかりだ。
だからかな。

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ちょっとあとで気づいたのだけれど、もしかして「埋める」は塞ぐ、に近い感触がわたしのなかにはあったのかもしれない。
穴を掘ってものを落として土をかける、という行為全体のことを「埋める」と認識しているとして、塞ぐというのは埋める行為の一番最後にやる「土をかける」という部分。
塞ぐ、って、なかにあるものを異物としてその空間ごとふたをしてしまうこと。
塞がれるものに死のにおいを感じているから、異物だと思う。いつかは朽ちてからっぽになるものだと思う。いつか忘れて、意識から抜けだしてゆくものだと思う。
そういう、ないものにするような、カラなかんじが、満たす意味での「うめる」となんだか違うな、という部分なのかもしれない。