高嶺格『Melody Cup』(20220101noteへ)



※覚え書き(順番はちょっとうろ覚え)

・LEDを持った男の人。裸で、震えている。
・影絵とリズムで始まって、ひとりずつ踊りながらマイクで自己紹介。
・ディーバさんのTV番組。かけ離れた翻訳をする司会者。
 司会者がお客さんにマイクを向けた途端に、舞台という架空の場所が現実に降りてくる。
 ゼロであるはずの自分という受け手が急に現れる。
 こういうふうに舞台上からお客さんに急にふる、という演出はいくらもあるけれどそれをことさらに感じたのはどうしてかな。
 先週彼の展示を見てからなぞっていたことと、私が演出の仕掛けについてずっと考えていたことがただそこに焦点をあてた、ということもあるのかもしれない。
 マイクを向けられたひとはその場の、インタヴュアーが紹介している内容にそぐうようなことをつい言っちゃう。それは日本人的なことだったりするのかな。
 あの時私たちは二重の意味で観客になっている。
・ブルーシートで美術品らしきものをつくるひと。それでできた砂紋を粗末にするタイの観光客と日本の女の子。
 感覚は共通しない、ということのデフォルメ。
・スフィンクスみたいな偉い位の天使みたいな存在が苦痛やひととひとのつながりや無のことを話す。
 ことばの度にノートをちぎって、落とす。
 ことばが美しかった。
 タイ語の音も、日本語の音も。
 ひとの声ってきれいだな。肉体みたいに、存在してた。
 ディーバ役の女の人がこの作品のテーマのようなことを話すシーンがあったのだけれど、すごく素敵な声だった。
 声になにか、自分のやりたいことの可能性がありそうな気がした。
 ええと、戻って・・
 このスフィンクスみたいな賢者は影になるとタイの人形影絵みたいでまったく印象が変わるのが不思議だった。
・海の上を歩くひと
・花道みたいなところでひとりひとりが感情の爆発をみせる。
 いつのまにか別のひとがからだをそっとおさめて、受け取るようにして次は自分の感情をそこに置いてゆく。
 こちらが苦痛を感じるくらい、強かった。
 でもちゃんとひとりひとり回収されてゆく。
 リレーされてゆく。
・一転して明るい音楽、光のなかで観客に向かってにっこり。
 なんか、こう言うと安っぽいけど、全部さらけ出して話しをしたあとみたいな気持ちになった。
・ジャングルジムで遊ぶようにして終わる。
 Melody faireが流れる。

最後に笑顔を向けられた時になんだか胸がいっぱいになった。
うつくしいなあ、と。
こんなに生身でいられることはパフォーマーにとって幸せなことだろうな。
そうだ、幸せそうだな、って思ったんだった。
生身って言ったってそのままぼんやり立っていれば生身でいるってことになるわけじゃない。
剥き身になることだから、そうやってはがしたり切り落としたり押し出したりするにはやっぱりたくさんちからが要る。
よりかかれる愛情がなければ痛いことばかりかもしれない。
信じる柱がなければ。
それはほかからもたらされるものとはもちろん、限らないけれど。
ああして最後になんてうつくしいんだろうって感じたっていうことは、幸せな作品づくりだったんだろうと思う。


先週高嶺格さんの展示を見に行ってからずっとなにか、つくることの根本について考えている。
何に触れても意識のそこにそのことがある。
私が気になっていることはなに?
どんな仕掛けをしてわたしはそれが伝えたいのか?
そこに色を置かないと誰にも、わたしにも、それはわからない。
ぽんと生まれない今だから、ちょっとひねり出すことをしてみなきゃ。
そこをつつけば、うわあって連なってくれる気がする。

生みたいのに生まれない混沌みたいなものがどんなかたちや色にせよ、この舞台に大事なことがたしかにあったなと思うし、その確信はひとつのヒントだ。


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●『Melody Cup』
構成・演出 高嶺格
出演 Dearborn K. Mendhaka、Pakorn Thummapruksa、Ratchanok Ketboonruang、Preeyachanok Ketsuwan、Nattiporn Athakhan、朝倉太郎、伊藤彩里、児玉悟之、トミー(chikin)、富松悠、ニイユミコ(花嵐)、諸江翔大朗
日時:
(横浜公演)2011年2月19日(土)3:00pm、7:30pm / 20日(日) 2:00pm、6:00pm
会場:横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
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