曇りガラスにはばまれていたら、近づいたらそれとわかるけど、やっぱりそれを触れない



なぜ水の要素のあるものにこころ惹かれるんだろう。
とある感じの光にひきつけられるけどどういう種類のものに働きかけられていて、わきあがったものをいかなる言葉にできるのか。
ひとりきりでないと見られない風景とか浮かばないものごとはいったいなんなのか。
この言葉にどうして赤線を引いたのか。

そういうもの全てに「わからないけどすべてがそこにあるんだよ」ってわからん理屈をつけて放置しすぎて、だから今の私は大混乱を起こしている。
たくさんの本のふせん、ピンで押した写真、増えてゆくネットでのブックマーク。
つっこまれないまま放置されて散乱してる。
時間と自重でひかりの届かない海のそこ。

毎日世界にあっちにひっぱられ、こっちは押しつぶされしていることをどれだけ長いこと受け流すフリをしてきたのかな。
怒ったりぶつかったり泣いたり破れたりすることなんてぜんぜん平気でやるよ、と思ってたのに、猫を脱いでも猫、みたい。
こっちを隠したらあっちも隠れるし、その半分を捨てたらあの半分も明け渡すことになる。
ほんきで怒らなかったらほんきでようやった!って一緒に喜べないし、ほんきでわからないよって言えなかったらほんきで壁を突き破って泥に落ちることもできないのにな。
わかっててもすぐ安全なところに身を隠すこの性分は、なんなの。


今日はネタ帳をいっぱいにします。
踊りに行くぜのこともだし、見てきた高嶺格展のこともだし、新しい企画のことも、写真のことも。
ひとつでもいいから掬ってこよう。