写真を現像したこと

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No.1822

No.622

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1年半撮りためたフィルムを現像した。 思うことは色々あるけれど(べったりとして透明感がないのは現像のせいなのかフィルムを古くしちゃったからなのか私の腕のせいなのか)できあがってきたフィルムを眺めることはやはり特別だな、というふうにおもう。カメラを覗きながらわたしがこれを本当はどんな風に撮りたかったのかを思い出す。風が強かったなとか、このあとすぐに同じシーンを動画で撮ったっけとか、太陽がどっちにあったか、自分の息づかい。 コンタクトシートを見るのがとても好き。 わたしが何を見たかったのかが分かる。 コマとコマの間に誰かの背中を見て歩いたことを思い出す。 対象をわたしは1枚しか撮らない。けれど時々2枚撮ってみてるときがあって、二つの写真を見比べて自分の試行錯誤に微笑む。結局、いつだって最初の一枚の方がいいのだ。 私だけにしか分からないことがそこに並んでる。 もしかして、もしかするとわたしは、写真はただ自分のためだけにやっていることなのかもしれないな。 踊りはものとして手渡せない。現在しか表せない。写真を撮ることは踊りでは満たせないそういうものを補完することなのかと思っていたのだけれどどうやらそれだけではなかったみたい。

終わらないものを求めてる。 けれど根を張って定着することも、欲しい。 変わってゆくことや忘れてゆくことをその時間に留めて、時々手でさわりにいきたい。 そこにあるのはただの画像じゃない、てざわりでありにおいであり、ふたたび胸のなかを流れる温度そのもの。

立ち返る場所が欲しい、というような感覚はないな。 ただ、自分が見て触れて考えて受け取ったことを、あまさずそこに蓄積させておきたい。 なんだか、全然大袈裟な気持ちはないんだな。 切実な何かを写真に求めてるわけじゃない、と言ったら語弊がある。 だって生きてる間じゅうずっと切実なんだから。

ひとを撮らない理由もそこから導き出せるのかもしれない。 「記念」とか「プレゼント」のためには撮りたいんだけど(すごく撮りたい)、でもなんだかたぶんそれはわたしと写真の間にある本気のなにかとはちょっと違うから、撮ること自体をためらってしまうのかもしれない。 このためらいの正体は、半分くらいはまだ分からない。

フィルムも現像(データ化すると1本8〜9€した)も高いけどやっぱりフィルムで撮るのたのしいな。 これほど写真がずっと下手くそなひとも珍しいんじゃないだろうか、たぶん写真は、私のような「反省のない人」は上達しないんだろう。 下手くそすぎ…って爆笑しつつも大事でいとおしいので、お金と相談しながら撮ることにしよう。