撮るとか撮られるとか

日曜のセッションで直前に入れ込んだシーンがあって、それはちょっとおとなしくなって落ち着いてしまった構成を破壊しつつお互いのテンションに乗っかってあげてゆくシーンになればいいねというような部分だった。 私は飯名さんとなんかやろうということになって踊るのはもうやってるからカメラかなー、踊りながら写真撮る、ってなったら飯名さんもカメラにしようと決めていて、じゃあお互いを撮ることにしようかということになった。 これは本番にしかやらなかったことなのだけれど、その時の感覚がすごく面白くて、なんだろうなああれは、と時々思い出しては考えている。

やったこととしてはお互いを撮りあって、だんだん夢中になって、レンズ同士で噛み付くみたいに接近してゆく、ようなことだったんだけど、あんなふうに強くシュートしたり吸い込んだり覆ったり、みたいなやりとりをカメラで出来たことって私はあんまりなくて、いくつか色濃く覚えている瞬間はLine展のDMのためのろうそくの中の鏡の自分を撮ったとき、それから作品にするために自分を撮ったとき…と、つまり自分を撮ったときしかおとずれないことだった。 つまりどれだけ世界から切り離されて集中しているかということにも関わってくるのだろうけど、あとは、被写体とのやりとりのなかで自分のからだがどこにあるか、ということもすごく重要なのかもしれない。 撮っていると同時にお客さんには観られているわけで、見ていることと見られることが同時にあったという環のようなもの。 たぶんこの感じは自分で高めてゆくことができるなと思う。 存在を見つめるだけじゃなくて自分がエネルギーをぶつけてその手ごたえごとおさめる、というような。 ぐっと何かしらと手を繋いでまるごと飲み込むような感触。 もちろん踊っているからだというのは普段とはまるで違うし、私のどこかしらも別人のようなので、意識がより濃くなったということも大きく作用していると思うんだけど。

そのことで思い出したのが新納さんの写真のモデルになった時のことで、あのとき、舞台写真以外には撮られ慣れをしていないものだからやっぱりなんだか不自然だなあとか、ふいを突かれないと写真にならない、みたいなところがあって新納さんもあれこれ苦心してくれていた(と思う)。 さすがにうまいからとりつくろうとする前の表情をちゃんととらえていてへえ、と思うことしきりだったんだけど。 わたしはこんな顔してるのかー、と、不思議な気持ちになった。

お互いぐっと繋がりあえないのを感じながら大分時間が過ぎてもうそろそろおしまいかなと思った頃、なんだかわからないけど「あれ?」という瞬間があって、なんだろう今の、と考えている間に次のショットになって、その時にからだのまんなかがすごく抜けてまっすぐにカメラに向かった。 その瞬間に新納さんも手ごたえがあった、って顔をしていて、「そうだよね?」みたいに感覚を共有する。 今のたぶんいい写真じゃないかなと思ったらやっぱりそうだった。 なんだったんだろう、あれを再現しようとしてもすぐにはできない。 でも一回知ったからまた訪れるはずだとも思う。 それも、あれはほんの兆しのようにささやかなものだった。