どこにもしるされないこと

大きな出来事のあとには不思議なくらいに自分が選んだり選べなかったりすることが見えてきたりする。
でもそれは大枠のことであって、ずっと続いている大問題のようなことのあいだでは相変わらずこころがたちゆかなくて足が止まったまま。

さくらが明るく咲いている。
駅から下の道に下りる階段をまぶしく囲んで、また春が来たなあと思う。
新しい芽や紅葉と同じでさくらもいちばんうつくしい日というのがあって、たぶんあそこのさくらの一番は今日だったんじゃないかな。
息がつまりそうになった。

川沿いにも立ち並んでいて、通勤中に立ち止まって写真を撮っているひとがいた。
家族に見せるのかな。
会社のひとかもしれない。
この瞬間この写真には、私の記憶も含まれることになる。
そのできあがりを私は見ることはない。
写真を見るひとも、私の記憶をそこから感じることはない。
でも、私だけが、あの写真があの場所で撮られたんだということを知っている。
そのことが不思議だった。

ひととの思い出だったり、その瞬間に見た色のことだったり、思考の先のことだったり、そういう内部のことがふくらんでからだには収まりきれないんじゃないかと思うことがある。
涙とか声とかいうかたちにできないとき、踊りのようなものにもできないとき、からだのすみずみまでこれ以上ないくらい増えて細かくなってとけて、白く燃えるみたいになる。
そのまま窒息しないように深く息をする。
そういう瞬間がどんなにしんどくても、ちゃんとすべてひきずっていたいな。