鳥取にいます

朝起きると空は明るいけれど雪がさくらのように散っていて、屋根や道端やくるまやあらゆる植物にこんもりと雪が山をつくっている。
鳥取は毎日そんなかんじです。

10月と同じ、鳥の劇場というところにお世話になっています。
鳥の劇場は鹿野町というこの地域にとても密接に結びついていて、いろんなダンサーを呼んでワークショップをしたり作品を呼んだりしているし、町のひとも舞台に出演したりしている。
もともと何百年も続くお祭りを守ってきた町なのでそういうものを受け入れる下地があったとはいえ、ここまでにはたくさんの情熱と工夫とがあったのだろうなあ。
使っていない民家をお借りして5人で合宿みたいに稽古をしたり生活をしたりしています。

町のひとが雪かきをしていることとか、10月には咲いていた畑や側溝の花が枯れているのを見て、なんだかいつもなんでも機会というものが手に入る東京のことを考えました。
携帯を持つようになっていつでも連絡ができるようになってしまった、連絡が取れるだろうと期待するようになってしまったそのことのように、東京では「今は、これはないんだ」という当たり前な諦めのようなものがないなあ、と。
生活のために時間を割くよりも優先すべきことがある、電車も頻繁に走っていて当たり前、春の花は冬には見られない。
そんなこともちろん都会でも同じようなことはあるのだけれどいつだってその代わりのものがあってそれを忘れさせる。
自分の時間であって自分の時間でないような、そういうことをぼんやり考えました。
そういう生きた時間のなかに、東京でつくった作品を持ち込むことがどういうことなのか。
舞台ってこういうもの、という決まりごとを知って見に来るひとのことばかり考えて普段つくっているつもりはない。
でももしかして東京というもの自体を私はどこかしら虚構のような意識当てていて、その虚構のなかで生きているひとを対象にしているふしがあるのかもしれない。
そういう安易な意識がどこかにあって、ああ、どこでやろうとそこにいるのはいろんな生活を持った人間なのだな、ということを、こうして生活に時間を費やすことで思い知らされるような気がする。

やっと複雑な段取りを整理して作品が通せるようになって、これからもう一度ぐっと踏み込んで煮込んだり、ちょっと別の感覚のレイヤーのことをさらい直したり、あと本番まで時間はそんなにないのに大切な調整がたくさんのこっている。
もちろんまだ自分の動き自体の詰めも甘いし。


稽古の合間にちょっと外に出たら屋根に雪がさらさらと当たっていた。
その音とときどき屋根から雪どけ水が落ちる音しかしない。
それから、鳥がひとこえ鳴いて通り過ぎる。
それだけ。
あとはそこにそれを聞いている私が残る。