たぶん煩雑からもうまれる道のこと、ピクニック

あたまの中が整理整頓されている状態になったことがあるかな、果たして。
いつも目的みたいな場所は遠いしみみたいに見えている。歩けどもあるけどもそれは近づいてこない。
目移りすることも多いし、霧もかかっているし、ゴールに似た匂いのものはそこここにたくさんある。
第一、その目的地はわりと頻繁に動いて容易には特定させてくれない。
迷うことは豊かなことだとも思うけれど。

昨日は何か大きなヒントの種のようなものを確かにもらったのに、まだ植えられる状態じゃないみたいだ。
というよりはたぶんそのものを植えるより、植えている手のことを意識すべきなんだろう。
つまり、もっとシンプルな道を拓くこと。
けもの道を何本もいたずらに描くのではなくて確かに通して踏み固めること。
映せるのはそのアイデア自体ではなくて、その発想へと至る明瞭な理解。
なにをおもしろいと思うのか、なにが取り出せずにもどかしいのか、なにを強烈に感じるのか、手渡せる感覚っていったいどういうものでどういうことなのか。

たっぷりひとりで考えられる時間があればもっとあれこれをつなげられるのに、と思っていたけどそれはうそだ。
せめぎあい、摩擦のなかからしか気付けない。
少なくとも今のわたしはそうみたい。


ピクニックしたくなった。
フライパンとコンロを持って、パンケーキを焼く。
ぶどう狩りしたいっていうのも生きているから、デザートはぶどうで。