ケルトのひとは、ギリシャ人が神様をひとのかたちであらわしている像を見て大笑いしたんだって。
ケルトのひとの神様とかいのちに対する考え方は、日本のそれと似ている。

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頑固なところがあってすっと素直に新しい見かたができない。
目のまえにそれがすとんとはだかで置いてあっても自分が見たいようにみている。
そんな気がする。
そういうふうに狭く掬いとることでしか認識できないこともわかっているけれどときどきもどかしいし、なにかに気付いた気がしても疑いを持ってしまう。
まっすぐひとみの奥までものごとが届くことはほんとうにまれ。
訓練はそのためにあるんだな。
まっさらになるまで、基本の動きを繰り返さなきゃいけないんだ。


じっとしていてもあんまり踊りには見えないだろうからからだの表面にかたちとして出すしかないんだと思うけれど、そのかたち、というのがくせもので、わたしはずっと底の浅いところをひっかき続けているように思う。
きっとケルトのひとに笑われてしまう。
(ちょっと違うけど)

実際のからだの様子や景色や出来事、行動をなぞるんじゃない。
そのときのからだによって浮かび上がる感覚を抽出して、かたちをかえて、今度は観ているひとに呼び覚ます…
なんて書くとすごくややこしいしできる気がしないからもうちょっとことばにしないところで煮詰めるしかない。

ことばにすることでそれは固定されるけれど、より一層手に負えないところに逃げ込むことも確かなんだな。
けれどそれで当たり前だ。
ことばがうまれるよりうんと前から、動物は感じることをしてきたんだもの。
全部に手綱をつけておとなしくさせることはできない。
それでも泳いで、暴れて、破いてとびだしてゆくことだからこそわざわざてのひらに載せて誰かに見せたいんだものな。