眠り病、はまひるがおみたいな、待っている道、LIVE



眠りすぎるのはととのえるため。
考えていることと感じていることのずれを埋めるため。
なんとかこころをなだめるため。

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マンションの入り口に花のかたまりが落ちていた。
強い風に吹かれてプランターのなかで折れたのだろう。
いちどは通り過ぎたのにぎゅっと足が止まって、ひろいあげた。
まだそんなにくたっとせず自分のちからで立っていたから、ふんわり軽かった。
水を吸わせて、明日土に入れてみる。

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会社への道が好き。
さくらや沈丁花やくちなしや木蓮がずらりとならんでいる。
川もある。
蔦のからまった小さな工場みたいな建てものも。
小学校の校門ですれ違う子ども。
体育館は少し高いところにあって、坂になっているからぐんぐんのぼるとちょうど目の高さに地面がくる瞬間がある。そのときの、下草を眺めるのが好き。
大きなビルのガラスの隙間は鳥のつどう場所になっていていつも騒がしい。
駅のほうからずっと見えていたクレーンが近づいて、おとといよりもぐんと出来上がってきた建物に近づく。
緑が濃くて、頬までその色なんじゃないかと思う。

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美術館が混んでいるはなしから、どうして絵はみんなが見たいって群がるのにダンスはなかなかそうはならないんだろうね、という話になった。
絵はずっと残るからもしいっとき良さがわかってもらえなくてもいつかわかってもらえる可能性があるけれど舞台芸術はそうはいかないよなあ、ということを考える。

たとえば建築とか、絵とか写真とか、そうしてものとして残せるっていいなあと思うこともある。
わたしのからだと一緒でわたしの踊りは期間限定であるから。
でももしかしたら写真のおかげか自分のなかでなにかが変わりつつある。
なににせよわたしにとってみればその生み出したものがどれだけ酸素に触れているかということよりも、もっと手前の過程に惹かれているのだから、時間のことはほんとうはそんなに深刻じゃない。