境界、おいかけっこの速度、それぞれの役割



自分の記憶の場所から動きをつくっている。
その場所を選んだのは、そこが境界だったからなんだと思う。
生活している場所と隣町・特別なお出かけ先との境。
その場所で遊んでいたことからイメージが膨らんで出てきたいくつかの遊びも、つきつめると境目とか裏表とか、かけはなれたものがひとつになっている…というようなことが関わっている気がする。
わたしがそこで体感したことをからだの表面ににじませるにはどうしたらいいか。
境界、ということをどうやって。
これは踊りだけのテーマではない。
境界や、輪郭、裏表、両極。
そんなことをからだで感覚としてさしだす方法がきっとあるはず。
それから、その遊び自体をマイムなどで表すのではなくて私はなにが面白くて、なにが不思議で、なにを求めてそのことをしていたんだろう、ということも。

感覚のようなものを再現したくてからだのかたちをさぐる。
さぐっているあいだにそのかたちがまた新しい感覚をくれる。
そのさぐりあい、追いかけっこだし時には打ち消しあいっこだなあと思う。
そのときに決めたモチーフ(感覚だったりことばにできるようなテーマだったり)が生み出すであろう効果に対し忠実に動き、得た感覚が消える前にまた起爆剤をさがす。
振付だと、それをあらかじめセットしてコントロールすることができるし、即興だとたどり着けないことがあるような気もする。もしくは時間がかかったり。
(だから即興というかたちの本番をあまり好まなかったのだけれど。たぶんそれは自分の即興に対するセンスが磨かれていないから。今は即興も好き)
ともに、みるみる生まれては視覚的にはかききえ、けれど身に積もってゆく感覚のようなものは厚みを持ってゆく…といいなあというのは同じ。
セットすることで自分自身の身体・感覚反応以上のものをあらかじめそこに用意できる。
複数いれば関係性で見せることもできるし、空間や音に対する効果を計算しておくことができる。
よりリアルで生であるのは即興だけれど、それはその場でなにかに反応するためにきっちりとはセットしない、ということが条件になるのかもしれない。

遊んでいて走り疲れたなとか、今日はつまんないなとか、ちょっとひとりで居心地が悪いなとか、ふざけあっていて笑いがもれちゃったり、そういうこともヒントになるかな。
まったくひとりでいる時と、だれかそばに大人がいてその目を気にしているとか。


なにかその景色なりできごとなりに対してすぐに情を入れようとしてしまう。
もっとただ身体で語ることをしたいのに。
でも今私が振りを考えていって、演出の上本さんがそれを発展させたり、ものを加えたり、ときにはばっさりと打ち消したりしてくれるやりかたは何かとても面白いし、大きな気付きがある。

平行して、もっと微妙な変化が浮き上がってくるからだをつくらなきゃ。
やっぱりそれには、バレエなんだよな。
変なからだの癖を少しでもリセットしたい。