* 春のはなとの午後、舟を見失うこと



ひさしぶりにSちゃんと逢う。
舞台に来てくれてひとことふたこと交わすばかりでゆっくり話すのは久しぶり。
逢ってすぐ、なにかどきりとする。なんだか大人っぽく見えて。
話すうちにああ、やっぱり内側は変わらない、と肩のちからが抜ける。
この2年で纏ったものだったのだきっと、最初の瞬間にみえたのは。
以前はほんとうに空気みたいなところがあった。
ころころととどまらない、空気に溶けている、夕方に近い色の光みたいなところが。
あ、なんだか地面を踏んでいる、と思った。
立っているなあ、と。
けれど笑うと薄い、いちまい皮がふとめくれて、やっぱりまばゆい輝きがこぼれ出す。
きっと包む空気やひとみが、語りすぎるんだ。
わたしが察しているわけじゃない。

いっぱい迷って、いっぱい笑ってほしい、と思う。

+

気まぐれで買ったラナンキュラス。
ひとつ失ったら花を買おう、と、なにかを失ったわけでもないのにそのことばを思いついただけで買った、春の花。
ラナンキュラスはSちゃんみたいだと思う。
アネモネもラナンキュラスも、友達と私を繋いでいる。

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(これはSちゃんとはまるで関係なく、帰りの電車で思ったこと)

乗り捨てた舟は広い海に漂い出してしまったらもう二度と出会うことはできない。
縁があればまた逢えるということばはただの慰めじゃない。
けれど、どうしようもなく、二度と同じものはかえってこないのだとも、同時に思う。
ひとやものならばまだ希望がある。
いちばんシビアなのは自分の道のりのうえのなにものか。
そう実感するほどに、ひとつひとつのものごとの細かな差異をわけるようになったのだったら、いいのだけれど。