* 幼なじみ、晴れた誕生日



私にとって幼なじみと言える唯一の存在。
一緒に団地の庭でレシーブの練習をして、両親がいない時には一緒にご飯を作って食べて、お泊りして。
住んでいた街はどんどん変わるけれど。

家族団欒に混ぜてもらったのだけれど、なんだかとても、母同士が似ている気がした。
ずっとばりばりかっこよく働いてらしてお酒も楽しいお母さんと、家庭だけを生活の中心としてきたどちらかというと消極的に転びがちな私の母とはもちろんエネルギーが違う。でも、なんとなく。
母も下町育ちだからかな。
同じ年代だから?
でもそれだけじゃない気がする。
ずっと行き来してきて心地よかったのは、このことも関係しているのかなあ、と思ったり。
だんなさんとは今回もそんなにちゃんとしゃべれなかったのが残念だったけど。

+

通勤の道にちらほらさくらが咲き始めた。
花が開いてやっとこれもさくらの樹だったのかと気付いたものもある。
木蓮がにぎりこぶしをいくつかほどいていた。
あとなんだろう?すずらんと水仙のまんなかみたいな白い花。
春はこうして毎日ちょっとずつあるいてきたり立ち止まったりしてやってくるのが見えるからなんだかいとおしいのだと思う。

一日いちにち季節が変わりゆくのを感じられて幸せだなあ、写真に撮りたい!とにやける。そしてとても身近な、私のように毎日外にはでかけられないひとのことを思った。彼はこうやって昨日のつぼみが今日ひらいた、という発見を毎日するということはないのだ。私が感じているしあわせは他の人にあてはまるわけではないのも分かっているし、さくらを見る私が豊かでそれができないことを可哀想に思うわけではない。けっして、けっして。私になど、ほかのひとの幸せははかれない。すべてのひとは違うから、見出すものも違うはずだもの。だから普通ならそんなふうには思わない。でも今日がそのひとの誕生日で、小さい頃から私が彼に何をしてあげられたわけでもなく、今も彼が何を好きなのかもわからない、毎日何を思って過ごしていて楽しみはどんなことで、誰が友達なのかもよくは知らない。お互い大人なのだし違う人間なのだし当たり前…というかある程度は仕方のないことなんだけど、とても近い存在だからことさらに自分勝手に感情の押し付けをしてしまった。母が子供をまるごと憐れもうとおもったらこんなふうになるのだろうか。ってそれはお母さんたちに失礼か。それともただ、なにかに謝りたい気持ちになっているだけなのかな。何の役にもたたないことを知っているのに。ただいつまでたっても私を追い抜くことはない、ちいさなこ。会社にいかなきゃいけないのに、こんなに空は眩しくて鳥もちゅんちゅん飛び回っているのに、立ち尽くしそうになった。

でも考えてみたら違いを尊重しひとの幸せは私のしあわせとは違うと突き放すことと、身内だからって勝手に可哀想と思って痛みを感じることとは、どちらがよりつめたい行為なのだろうか。
どこに立っているかで、感情に理屈はつけられなくなる。


っていうか、私には彼の趣味がちっともわかんないんだよなー。
何を喜ぶのかなあ。