* 『オウエンのために祈りを』 ジョン・アーヴィング

アーヴィングの描くものがたりにはいつも、その人生まるごとの重みがセットになってついてくる。
ひとつひとつが生きて、積み重なっていって、圧倒する。
こころをふるわせる話はいくつもあるけれど、アーヴィングを読んだときに感じるどうしようもないこの、どこにも預けられずに対面するしかないような感傷って一体なんなんだろう。
滑稽で偶然に満ちていて突飛で、溺れさせるような幸福と喪失があって、脆くて、愛情に満ちていて、極端で、変なひとばっかり出てくる。
そんな起伏や色彩に富んだおとぎばなしなのに、そのすべてをごく当たり前な平等な死や生が覆っている。
影のように、ぴったり付きまとってかたときも離れない。
ひとしく流れる時間を誰もが突き破れないように、私もその薄いまくのなかにいるんだ、ということをかえってまざまざと感じる。
この肌に。
グロテスクなほどに、それは現実だから。

私自身がオウエンを失うことがすごく辛い、と思いながらずっと読んでいた。
いつもそうなんだけどここに登場するひとたちのことを好きになってしまうから。
最後に向かうにしたがってちりばめられたマテリアルが組みあがってゆくのはちょっとできすぎだけれど、分かっていながらもひっぱりこまれた。おお、奇跡って便利だなと思いながらも、でもこれを私はお話だと片付けられるだろうか、と思ったり。
でも何よりも、そんなふうに上手に物語をつなげなくってもいいから、オウエンを奪わないで欲しい。そんなことをずっと思っていた。

どんなかたちで喪ってもそれ相応の反応を心に刻むし、なにかによって慰められたりもしない。
人生はおとぎばなし以上に思わぬかたちをとる。
残されたひとにとって、おはなしを紡がずにはおれぬほど、残りの人生は長い。


“愛している誰かが死ぬとき、しかも予想していないときに死なれた場合、一度に突然その人を失うわけではない。長い時間をかけて、少しずつ少しずつ失っていくのだ。しだいに郵便物が来なくなり、枕やクローゼットの衣類からにおいが薄れていく。少しずつ、なくなった部分、欠けた部分ん積み重ねていき、そしてその日がやってくる―ある失われた部分に気がついて、母は永久にいなくなったのだという痛切な思いにかられる。そしてまた一日、すっかり忘れて何ごともなく過ぎたと思うと、またもや何か失われた部分、欠けた部分に気付かされる。”



オウエンのために祈りを