顔をみて話せる場所



ウェブマガジン「いとでんわ」が出来上がって1週間ほどが経ちました。
この1週間はそれを整えることで毎日気持ちも時間もいっぱいになってどこかきりきりしていた気がします。
いろんなひとに話を聞いたり、いろんなひとと繋がって何かそこからわくわくするようなことが生まれないかな、と思い立ってはじめたことだけれど、考えていたよりもずっと大変な作業ではありました。
おとなしくひとりで積み重ねる作業をしている方が性に合うのではないかと気弱になったり、先のことを考えてちくちくと蓄積する膨大な重さにふさがれるような気持ちになったり。

記事を書いてもらえませんか?という急なお願いに応えてくれた方たち、そのことについて真剣に考えて答えをくれた方たちに本当に感謝します。

自分が何をしていけばいいのか、今まで続けてきた何か生み出すこともそうだし新しくトライしようとしているこういうことも含めて見つめようとすると、やはり毎日立ち止まってしまう瞬間はある。
ちっとも進んでいないんじゃないか、何か大事なことをぽろぽろ落として歩いているんじゃないかと心細くなる、そのことをとにかく手を尽くして埋めていくしかない今のことを、とにかく考え続けるしかない。
けれどこうして誰かに、何かにきちんと触れていたいと思うその原動力をもらえることはしあわせなことだと思います。

日替わりにしなきゃよかったかもしれない、と思うくらいに、最初のページから消えていってしまうのがもったいないような記事が毎日更新されています。
ぜひ読んで頂けたら嬉しく思います。

□日替わりコラム - いとでんわ(のちに改名し、アパートメントになりました)

いとでんわ、という名前をつけたのは、いとでんわが通わせるコミュニケーションには体温が伴うような気がしたからです。 直接糸を伝って届く声はちゃんと空気を震わせて耳に届く。 誰かが話している時には耳を当てて聞くし、自分が話す時には向こうはそれを受け取っている。 ぽんぽんどこかに投げ込まれる会話ではなく(もちろんそういうものだって面白いのだけれど)、きちんと行き来のあることば。 あまり近付きすぎると糸がゆるんでしまうから自分はそこにきちんと立っていなければいけないけど、相手がどこに立ってどこを向いているかということを感じないといけない。 そういう、ひとが向こうにいるよ、ということでしか練り直せない部分のことが、今とても気にかかるのです。 なにか予感のように。

ただ連日の手作業にこころが疲れたのは確かで、そろそろ水が欲しい。 生み出したり、ふるえるようなことに接したり、それともただフラットになるためにレッスンしたり。

なにごとも、いい釣り合いを保つために行ったり来たりしなければいけないのだなぁという気がします。