断食、ほんとうの生活のこと

友人からいただいた面白そうなプロジェクトの打ち合せ。
実現したらちょっと新しい舞台になりそう。
まだ選んでいただけるかわからないけど。


6月のはじめの日から3日断食をしてみました。
前からちょっと興味があって、ほんの好奇心で挑戦したのだけれど。
おなかを空かせるということが私の生活にはなかなかなくて(食べないと不健康になる気がしてついいっぱい食べてしまう)、でも食べるということからちょっと離れて生活をしてみたかった。
終えてみて、少しいろんなことが軽くなった気がする。
実際体重も少し減ったけれどたぶんそれはすぐ戻る。でも必要ではなかった垢のようなものが少し剥がれて、外側はふわふわ軽いけれどその分芯がすっと絞られたかんじ。
3日間の短い断食だったので精神的に変わったことというのはあまり意識されないのだけれど、悪くない体験だった。
本を読んでも話をしても、すぐたべもののことを必要以上に拾いあげていつもより想像することになった。
そんなにつらくなかったしもしかしたらもう少し何も食べないでいられるんじゃないかと思ったんだけど、今回はゆっくり元の生活に戻ることにします。


オキーフの家という写真集を読んだ。
スティーグリッツが撮ったのかなあと借りたのだけどそうではなく、マイロン・ウッドさんという方の写真。
オキーフが制作のために一人で過ごし、晩年には生活の拠点となった家の写真と、彼女と過ごしたひとが綴ったオキーフに関する文章。

土でできた建物はひとと土地を隔てない。
もちろんコンクリートだって自然のものからできているんだけど、土でできたその家は直線がなくて、つなぎ目もない、やわらかな手作業の跡が残っている。
ふと、以前雑誌で読んだ建築家の藤森照信さんが好きだと言っていたサン・フランシスコ・デ・アシス教会のことを思い出しました。泥で出来たその建物を藤森さんは“まるで建築を超えた生き物のように見え、泥は究極の建築材料だと感じました”と書いている。(penの№287で)

花や植物を育て、収穫をして、荒れた大地に陽が昇ったり落ちたりする時間とともに生きる。
生きることそのものを実践(ということばはおかしいのだろうけど)する、ただそれだけの生き方を、わたしもいつか年をとったらしたいなと思う。
今はその手立てがない。生きる知恵のようなものからずいぶん遠く隔たったところに自分はいる気がする。
ほんとうは動物だったらそれだけで生きるはずのこと以外のことがらばかりにかかわりあって、それだけを引きずって、頼って、生きている気がする。


※追記:断食を勧めてくれた友人のコラムはこちら