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おいしいお蕎麦やさんに連れて行ってもらった。 おいしいチョコレートを知っているそのひとは、おいしいとんかつとおいしいお蕎麦どっちがいい?と訊いてくれて、うーん、と悩んでいるわたしに分かれ道までに決めればいいよと言った。

ビルが立ち並ぶ細い道の塀が木に変わったなと思ったらもう入り口で、平らに心地よく抜けたお店の中に入ると歩いてきた道のりを忘れた。 座敷に座ると椅子のひとたちと同じ目の高さになっていて、厨房のほうに向かってほんの少し下がっている。 見渡すとゆるやかなひな壇のようで、正面左におかみさんがひかえている。 夏になって戸を開け放つとこれが気持ちがいいんだよ、と教えてくれる。 戸の外にはそんなに広くない小庭がめぐらされている。 塀の高さがもう少し高かったら息苦しいし、低かったら周辺が見えすぎて冷めてしまうだろう。

あんなにかおりの濃い野菜を久しぶりに食べた。 たけのこやふきのとう、明日葉や菜花やこごみやたらの芽。 それぞれのかおりがさあっとからだに広がってわくわくするみたいだった。 てんぷらの衣に包まれているから、なんだろうねこれはと解体しながら、当てっこをしながら食べた。 蕎麦もすごく美味しかった。 お蕎麦みたいなもののおいしさをいつもうまく表現できないんだけど。 さくらや新緑を見て今日が今年いちばん美しい日だということがわかるように、食べものの旬もほんの一瞬で、そのことはちゃんとからだが受けとるんだろうなあという気がする。 お母さんと、蕎麦が好きな友達を連れてきてあげたいなあ。

canal cafeに行ったらもう外の席はいっぱいだったから、テイクアウトにしてさくらの見える高い道をずっとあるいた。 お花見のひとや学生がにぎやかに通る道で、寒くなるまでたくさん話をした。 私はずっと「うんうん」とうなずいて、めまぐるしくこころを動かしていた。 舞台をつくること、日本のクリエイションの環境のこと、亡くしたひとのこと、震災に遭ったこれからのひとのこころのこと、今関わっている作品のこと、フランスの今むかし。 うんうん、とただうなずいていたのは、もうそこに差し挟むことばが必要なかったから。 おおきく開いてぜんぶ受けたいし、同時に繊細に手繰り寄せて積んでゆく作業もしたいし。 でもさいごにはもう胸がいっぱいになって、ただそれだけが全部になった。

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手放しの愛情に戸惑うのは、決して愛情を受けることに慣れていないからではなくて、自分はそれを受け取るに値するのかと疑うから。 そんなふうに誰かに注ぐことができるかとこころに訊く。 わたしの表面はわたしが持っていないと自覚しているものの全てからつくられているにすぎない。 手綱をはなしたら、ちりぢりにそれがはがれていってしまったら、いったいなにが残るんだろうとときどき思う。 いちばんこわいのはそこに醜いものが残ることじゃなくて、なにも残らないことなのかもしれないけど。

なのにそういうおもいもぜんぶ洗い流されちゃう。 いっぱいに受けとって満たされることで、そこに残るはずのものの輪郭を感じる。 今は触れて吸い込んだ愛情(直接むけられたものでないにせよ)でひたひただから、どんなにあたたかくておおきくて乾くことがないように感じても、それは自分が積み上げたものじゃない、そう言い聞かせてもさいごにはただ負けて、生まれ変わったみたいにまぶしく眺めることになる。

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帰り際、半分の月がきれいだった。 さくらもまちも芝生も見えるものが全部ちょっとずつひかりを発しているみたいに、それから、海を注がれたみたいに青かった。 フランスの6月の、夏に入る前の、太陽が沈んでまだ完全に夜にならないときの青から藍色になる世界の色がきれいなんだと教えてもらった。