はいりこむ音について

ヴァイオリンを聴いた。
音を空間に満たすことで、からだの中にある空間にもそれが響く。
大きな空間である肺はそれを大きくとらえるし、もしかしたら血液や肉の隙間の空気のようなものにも溶け込んで作用する。
踊りが、肉体を媒介して感触を伝えうるとしたら音は、内から、外から、同時にくるむものなんだな。
肺は呼吸をするところだし、声を生むところだ。
そこが、呼吸を受け取って、音を受け取る。
遠くからやってきて、同時にいちばんその発生のおおもとに触れて、揺さぶる。
踊りが音と同時におこなわれるのはもちろん音に肉体が動かされるということもあるけれど、そうして、憧れて補われたい部分があるんじゃないかな。

自分でも音楽のようなものに20年くらいかかわってきたけど、まるで無自覚で、今踊りに向けているような濃厚な意識はなかった。
私が出していたのはただの音で、からだを通したうたではなかったんだと思う。

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わたしに何ができるのか、みたいなことをずっと考えてきた。
なんだかこんな時だから考えなおさなきゃ、みたいにやっきになって、けれどそういうことも少しずつ落ち着いてきた今は、なにができるかじゃなくて結局は、どうあるか、という今までと同じ命題しか残っていないんだなと感じている。
いつもまさに今受けて、そして動くことを選ぶその瞬間の連続でしかない、そのことを考え続けるその姿勢を貫くこと。
知らなきゃいけないことも、先に何かを敷いたりとかもちろんあって、でも今の世界と照らし合わせて、そのジッパーを開けて、同時に動く、もがく、みたいなことが、今の自分の手のひらに実感として持てることかなもしれない。


“彼は言い知れぬヴィジョンを持っていて、しかもそのヴィジョンは他人に見せたいというものではなくて、何よりも自分が見たいんですよね。そこが彼の素晴らしい芸術家たるゆえんでしょうね。人に見せることが巧い映画監督は、いっぱいいますからね。(略)つまり、タルコフスキーは、内的な衝動に非常に潔癖で、純粋で、エゴイストだった。それが僕らを感動させるんですね。”
~武満徹インタビュー