写真展ふたたび、傘でお出かけ、話し込んで

写真展の設営。
今回の写真は、今までのものと少し違う気持ちで撮ったもの。

撮るものをかたい頭や習慣や思い入ればかりで選ぶのではなく、ちょっとでも目にとまったものをとにかく撮ろう、と今思っている。
いつでもカメラを手にして呼吸をするように撮りたいけれどやはりカメラを構えるのには特別な緊張がともなう。
ひとの目があるからついひとのいない画面ばかりになる。
だから、プライベートから撮ろうと思った。
家なら、一人きりの場所なら、気負わずに撮れる。
なにも目新しいものはない。とくべつ素敵な部屋でもない。ただ記録するみたいに、近しいものをみる。

そんな写真が面白いものになるのかはわからなかったけれど。
いま見たものをただ撮る。
当たり前の風景をちょっととくべつなものみたいに。
そうすることで何がわかってくるのかまだ実感はないけど、でも今日、ずっとフィルムを現像に出しているお店のおじさんと話していていつのまにか私はここの常連になっているし少しずつここに通うことが当たり前になっているんだということを改めて考えた。
別に写真に詳しくなったわけでもないし専門的な注文ができるようにもなっていないけど、でもここに写真を出すことが日常のひとつになったという変化はいつのまにか訪れていた。


根があるということに憧れている。
昔から住んでいる場所、小さい頃からの友達、いきつけの店、長年愛用している身近な道具、積み上げてきた技術や知識、愛情を注ぐ対象。
手のひらをみても、わたしは何もあたためてこなかった気がする。
いつも小さく旅をしているように時間が、場所がびゅんびゅんすぎていくような気が。
こころが定着する前に。
体温を覚える前に。
それはわたしの中身、性質の方に問題があって(好奇心とか気付くのが遅かったり目移りとか流されちゃうこととか詰め込んでしまうこととか)ほんとうはちゃんと身の傍にやってきているはずなのに。
それをそれとして受けとめれば、今も触れられるのかもしれないのに。

そういうことからしっぺ返しを食らいながらも、積んでいくしかない。
だってそうなりたいんだから。

+

昨日雨の中、傘をさした小さい女の子が隣のお母さんを見上げて「今日はいい天気だね」と話しかけていた。
お母さんと一緒に長靴でお出かけだもの、そうだよね、と微笑ましくて可愛かった。
急に雨が楽しくなった。

+

日曜のリハーサルのあとによくご飯を食べながらいろんなことを話す。
だいじに思っていることをまっすぐ伝えすぎるんじゃないかと、なにか押さえてしまう。
こうして文章にするくらいストレートでいられたらいいのに。

でもそんなことも、少しずつまっすぐ恐れないでいられるようになるといいな。