本番おわりました



振付をもらって踊ることはほんとうの意味ではアウトプットの欲を満たさないのかもしれない、ということをふと考えてはっとした。
自分のこのごろの作品に対する姿勢というか興味のありかたについて、なにかとてもずれたことをしてきたのではないか?という気がして。
ちゃんとわたしならではのものにする作業はもっと長くて暗い道のりなはず。
わたしが踊ればそれはおのずとわたしのものかもしれないけれど、そうじゃなくて。
ものがたりをもらわないとつくれないような役づくりじゃなくて、そのかたちひとつひとつを解体して映し、また分解してはあてはめ…という吐露であるはず。

昨日一緒に踊った友人が、本番で初めて真剣そのものじゃなくてちからを抜いてできてその楽しみを知った、と話していた。
踊るときはいつも集中と客観のせめぎあいのようなもので、何度同じ作品を踊ってもそれを完全にコントロールすることはできない。
うまくいったこともうまくいかなかったことも潔く手放して、また新しくその瞬時に向かい、受け流してゆくしかない。しがみついた途端、もう生きないから。
けれど完全に忘れてはいけない。
彼の集中力はものすごく動物みたいなので(褒めている)稽古中いつも面白いなあと見ていたのだけれど、そんな新境地に立ち会えたことはとてもうれしい。
だって、そういう新しい意識がひらけるなんてそうそうないことだから。
なにしろ彼がとても昂ぶりながらもぽかんとしているのがよかった。
ほんとうに、感覚として触れたんだなあ、と。

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いつもおなじことばでしか話せないことと、つくることについてもういちまい破れないこととは、同じ根元から伸びている。
おなじものをすくってそれをただ糸で繋げる作業はもう終えなきゃいけない。
たぶん。
わからないけど。