memo/橋とその周辺から分岐する記憶



橋はうちと、となりの町のスーパーをつなぐものだった。
母と買い物に行くときにがたごと越えた。
コンクリートの道からゴムみたいなつなぎ目があって、赤いぼつぼつの床に変わるとそこが橋だった。

母の自転車のうしろに乗っても運転するひとと同じように前をむいていた。
ある時前は関係なしに空をみた。
全部預けきって空だけをみた。
空がみたかったからじゃない。
わたしが前をむかなくても正しいところに導かれることがスリリングで不思議で、当然のことだった。
空はすごく高くて青くて、雲はあたりまえに鮮やかだった。


目が見えないひとの役を与えられた時、普段でもときどき目をつむって生活してみた。
目をあけている時に自分と障害物との距離をはかって、進むべき方向に糸を引いておく。
目を閉じてもその、目を閉じた暗やみに記憶の白いマークがついていて、それを頼りに足を進める。
導かれる線がこころもとなくなるぎりぎりまで目をあけない。


橋の近くの、隣の町との境にある中州のように見える植え込みに可愛がっていた鳥を埋めた。
生まれてから今までずっと自分を4次元でみたら、生きるトンネルなんだろうと思う。
はじまりは閉じていて今はまだ、現在のわたしで終わりも閉じている
わたしが死んだら、片方がふっつり切られたトンネルが残る。
いや、はじまりって厳密に言ったらどんなだろう。
お母さんのおなかのなかのいつがはじまりで、終わりは骨とか土とか次の栄養とかかんがえたら。


傘を重ねてかまくらのように丸くして、そのなかに潜った。
透明な傘ってそのころあまりなくて、かさかさした布のしたで見上げると影と色が一緒に自分を色づけした。
頬にあたる色はなぜかわかる気がした。
家でやってもつまらなかったのは雨が絶対に降らないから。


橋の外を渡るのに、どうして足元は同じ条件なのに進めば進むほど(つまり地面から高くなるだけで)怖くなるのか。
たとえば竹馬ができるなら、足が100メートルある竹馬だって操作できるはずなのに。


怪我のことを考える時、どうしても尖った板のようなものが骨の多い場所に致命的に刺さることを想像してしまう。
特に、目や額の辺り、顔。


思い切り爆発したみたいに駆け回るかのぼりまくるかひっくりかえるか、もしくはしゃがんで見上げていた。
こどものころのわたしは、そのどちらかだった気がする。


仲のいい女の子と遊んでいたら雲行きがあやしくなった。
急に冷たい風が吹いてこれはあらしだとおもった。
走って帰ろうとしたらいたら雨が追い付いて、走るスピードをあげたら雨と晴れの境目に自分がいた。
世界は閉じたみたいに自分のまわりにしかなくて、あの草の道はずいぶん長かった。


鏡で天井を地面にするだけでとてもおもしろかった。
天井の境を大きくまたぐ。
電気をよけて歩く。
そこに見えないもの(実際には足元にあるテーブルとか)があってときどきあぶない。
天井は高いから、自分の実際の背と違う感じがする。
自分の足が見えないから透明人間みたい。(実際の障害物も透明で不思議)
外に出たら足元には無限の空気しかなくなるから、なるべく、それはしてはいけなかった。
好奇心に負けてやったけど。
そういう絶対のルールが、そこにはあった。