虹色のいちにち、時間に取り残されて歩く、空色の鳥



今日は6月15日からの『Line(ルーニィでの書籍コーナー写真展)』の写真を平林さんのラボに預けてきた。
前回とてもぎりぎりに持っていってしまったので十分余裕を持って…と考えていたのに結局そんなにおおきく余裕は持てずに。
これだ、というものがなかなか出てこないというのが大きな理由のひとつなんだけど、これから先毎回間に合うかな、とどきどきすることになるんだろうか。
(写真は5月の展示のようすです)


今日は白がやたらに七色に見えて、四谷のまちを歩きながらきょろきょろそれを楽しんでいた。
空の雲もそうだし、ガラスカーテンウォールに映るひかりや、影との境目。
写真のイメージ説明の時に、ちょっと目がちかちかして困った。

わたしにとって色はたいせつな要素だけれどそれは自分にとってということで、作品の上にその色をのせることが必ずしもやりたいことというわけではないんだよなあ、ということを歩きながら考えていた。
色で写真を左右したくない、という気持ちはある。
色が好きだけれど、色はあまりにもはっきりとしすぎてる。
わたしが撮りたいものはなんなのだ。
写真を選ぶにあたってこの何週間かで撮った写真を眺めたけれど、わりとひどい。
なにがひどいって、カメラの基本的な技術がなってないから、ぶれてる写真が多すぎる。
特に5月は舞台写真や舞台の打ち上げ、夜や室内の写真が多かったからもう被写体は全部ぶれてしゃっと流れちゃっている。写真というより動画みたい。ひどい。
これはどうにかする必要がある。
これをクリアできないとほんとうに写したいものが目の前にあっても、一度のその場面を逃すことになるかもしれない。

今日は朝から現像をしたり写真選びをしたりしてその延長でお化粧もせず、小さなかばんとぺたんこ靴で赤坂見附まででかけた。
とくに誰にも会わず、びしっとお出かけモードの人波を、ごうごう息をしている街を縫って軽装で歩くのは素敵だった。
まるでモモになったみたいに、わたしだけ時間に守られて隠されているようだった。
ちいさい歩幅がぐんぐん進むけど、垂れ下がる葉もコンクリートの家も空を切り刻んで映すビルも黒い屋根もわたしを上から覗き込んだ。


それから今思い出したけれど今朝オナガを見たんだった。
高い電線でしっぽをひょいひょいやじろべえみたいに動かしているのはみたことがあるけれど、ちょんちょん地面を飛んでいるのははじめて見た。
私があ!っと近づくとぱっと枝にあがって、見上げるとちょっと先の葉の濃い方へ逃げる。
見えるところへ移動するとまたちょっと姿を隠す。
そこから大きく動くつもりがなかったみたいで、でもなんだか私はじらされているみたいで可笑しかった。

ほんとうに尾が長くてすらりと淡いグレーの空色がきれいな鳥だった。