『字統』、ねこ、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』



白川静さんの『字統』は以前から存在だけ知っていていつか読みたい本だと思っていた。
図書館で見つけてびっくり。
辞書だったのですね。
分厚くて切れるくらいに真新しい本だった。
ぱらぱらとめくり、自分の名前の漢字の箇所を読んだ。
ひとつひとつの意味は以前友人が教えてくれたので知っていたけれど、ひとつだけ新しい解釈を見た。
それを含めて意味をまとめあげてみて、戦慄した。
浄化や光や再生と、呪縛の影が同時にある。
水に墨を流すみたいな気持ちになりながらああやっぱり、と思う。

+

近くにあった植物語源辞典も手にとった。
赤坂はむかし茜がたくさんはえていて「茜坂」だったそう。
転じて、あかさか。
アネモネはギリシャ語で「風の娘」という語源からきていて、風が吹くときだけ花がひらくと考えられていたんだって。
あの行だけ読んでみた。

+

お寺にはねこがいっぱいいる。
海にも。
小さな路地にも。
私の好きな景色には猫が多い。

+

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』を読んだ。
この家族をとりまく一連の物語の最後にこの序章を読むのがいちばんいい読み方だったのかもしれない。
サリンジャーの本はいつも読み進むことがむつかしい。こころして読むかんじ。
なにも難しいことは書いていないのだけれど、何故かいつもわたしのがさつさはいちばん大切なことを取りこぼしそうになる。
何度もやめてはまたはじめから読み直し、また挫折する。
それでも必ず読み通そうと思う。
その甲斐があると知っているから。

『シーモア-序章』のほうは自分がちゃんとついてゆけているのかわからなくなることもあった。
終わってからもう一度読まないといけないな、できれば他のグラース家物語も…なんて考えてぐるっといままでのその一家の顔を見渡したら、なぜか急に涙があふれそうになった。

ここにちりばめられたシーモアとの思い出と、終わってしまった時間と、残されてそれを思うテディ。
ほんとうに愛するものを(それも世界でもしかしたらたったひとりの、いちばんの理解者を)突然もぎ取られたあとも人生を生きなければならない時、こんなふうに何度も重ねるしかないのではないだろうか。

割れてしまった破片のようだ、と思う。
きらきらと目を眩ませるけれどそれは拾い上げると皮膚を突く。

似ているわけではないけれど、亡くなった奥さんの写真を何度も組み替えて作品にしている古屋さんを何だか思い出してしまった。
ほんとうに、まったく違うけれど。 



「ぼくはおまえからすばらしく良い小説をもらいたいとは思わない。
ぼくはおまえの戦利品がほしいのだ。」 ~シーモア