踊りにふれるわくわくのこと



最近バレエを習いはじめた友人のことばを読む。
こんなにいとおしくてつやつやな気持ちになれることは、ない。
何度も接して自分にとっては色褪せてしまっていること(もちろん色褪せていいわけのないこと)を改めて追体験したり、新しい発見をもらうこともあるし、なにより、友人がつんできたことのほんの一部が、踊りという分野に初めてのつぼみがほころぶように鮮やかにみずみずしく息づいたことが、わたしをどきどきさせる。
言うまでもないことだけれど大人になってからの習い事は子供の頃にはじめる習い事と、その道ゆきが全然ちがう。
新しいことに触れるということでは同じなのだけれど、そこに引き寄せられ、浮き出てくるもの、総括して語るようになることは結局はそのひとの生きてみた道すじなのだろうという気がする。(子供時分には、取り込むことの方が材料として力を持ってくる。)
この日記にはずかしいくらい何回も書いている「踊ることは生きることと同じ」ということばは書くまでもない当然のことで、何を選ぼうと、もうそこには人間があらわれるだけなんだな、と思う。

みんなからだのあるひとは踊ればいいのに、と思っている私だけれど(そのくせ歌えないとか言ってしまうけど)、踊りこそなにをおいてもすばらしいと考えているわけではもちろん、ない。
わたしにはたまたま踊りがそのよすがであるというだけ、(しかも小さな頃から慣れ親しんだわけではなくたまたま出会い、幸運なことに)性に合った、というだけ。
自分が特別に時間をかけていることだからついそこに引き込んで話をしてしまうし、やっぱり私にとっては特別なことだという考えは変わらないのだけれど。

踊っていてよかったと思うのは、こんなふうに踊りに接したひとの生の声を聞くことができるということ。
踊り手であれ、受けてくれたひとであれ。
踊りを知ってくれたからじゃなくて、ただなにか切実なことを感じ、語れるという、そのこと。
ことばにぎゅうっと胸をしめつけられたり、ぐんぐんこころが広がったり、ちくりとしたり、肌にとても近いはなしができるということ。

こういう生の実感のようなものは単純だけれど豊かで、いいものだな。
かんたんで、ゆたか。
おどりはそんなのがいいかもしれない。