* こやしをもらった土曜日と日曜日



11月の終わりに個展で躍らせていただく石原さん (Click!) のおうちにお邪魔しました。
八王子からバスに乗って、そして電話をしてナビをしてもらいながら待ち合わせに向かう。
待ち合わせ場所は石原さんが実際に絵を描いている場所。


石原さんは小比企という町で生まれ育って、ずっとそこの自然を描き続けている。
毎年芽吹いては厚みを増し、そして枯れて還ってゆく草や木。
たくさんの野菜を生み出す土。
それを覆う雪、ときに花、藁や枝。
自分が知っているもの、自分のいちばん近くにあるものを見つめるということがとても気になっている今、石原さんとこうしてつながれたことはありがたく、また必然であったのかなあという気もする。

実はあまり自分で作品を作ったことがない。
自分よりもずっと成熟した表現をする方々のなかで私はいったい何ができるのか、正気にかえると頭をかかえてうなっちゃいたくなる。
けれどそれよりもずっと強く、こころの奥は躍っている。
私にできることは、私がいちばん大切だと感じているその直感に沿って動くこと。
その場所に感じにいくしかない、自分がからだを運んで獲得してみようとするしかないんだろうなあ、それに石原さんが描いている場所にとても興味があって、わがままを言って昼間からお邪魔させていただいた。


描いている石原さんを撮ったり、あまりの土のやわらかさに驚いたり、いっぱい栗が落ちている林をがさがさ歩いて栗が痛かったり、小さな小川をどきどきしながら跨ぎ越したり、草が深すぎて恐くて先に進めなかったり、用水路やススキが金色に光って綺麗だったり、いつのまにかお隣の畑に迷い込んでいたり…
私はずっとわりと都会で育ってきたのでほんとうに何も知らない。
ほんとうは浮かれていたけど畑や山や土や緑を見てわあー!なんて簡単に感動している風になりたくなかった。
だって、ここで暮らしているひとがいるんだもの。
簡単に、よその視線のひとになりたくなかった。
でもやっぱりわあー!とか言ってしまったししょうもない質問もいっぱいしてしまった。

おうちに戻ってちいさなお庭でビールを飲み、たばこを吸った。
奥さんが畑のものやおいしいものをたくさん出してくれて、不思議と私は緊張していないことに気がついた。
いつもとても緊張するたちなのに、何かほっと、そこに馴染んでいられた。

あーちゃん(あゆみちゃん)という猫がいるんだけど人見知りでなかなか出てこないの、と教えてくれた。
あーちゃんは2階のベッドにいるというので私はちょっと静かに集中してあーちゃんを撫でている想像をした。毛がちょうどたまっているところとか、鼻の上のビロウドみたいにかくかくするところとか。
庭に着いたときからあーちゃんは白だと当たり前のように思っていたら、あとからおそるおそる出てきたあーちゃんは本当に純白だった。
なぜあんなに確信を持っていたのかちょっとよくわからない。
あーちゃんのこと、見る前から知ってたよ、と話すとあーちゃんはチーズに驀進してきた。

6時から12時までずっと食べていた。
いろんなお漬物とスパークリングワイン、チーズ。
赤ちゃんサトイモ、ほうれん草のおひたし、長芋のバルサミコ酢焼き、赤カブやレタスは塩とオリーブオイルで、レバーの味噌漬け。
豚肉を白ワインでずーっと煮てナツメグや塩や胡椒で練ったリエットと、いろんな穀物パン。
10時過ぎて音楽の加藤さんと照明の増谷さんがきたのでラムのリブとニョッキのバジルソース。
最後にけんちん汁と炊き込みご飯。
最後にエスプレッソ。
びっくりするくらいすんなりおなかに入った。
全部とても美味しくてしあわせになった。
しあわせなごはんはひとを幸せにする。
美生ちゃんとけんじくんに教わったこと。

もちろん、絵も見せていただいた。
場所を見た思い入れだけじゃなくて(もちろん共演するからという思い入れだけでもなくて)すごく好きだ、と思った。
あのふわっふわの土がこの絵のしたにある。
その下の固いところまでどのくらい距離があるんだろうと足が感じようとする。
みずみずしさも乾きも、それ自身のいのちの強さでそこにあって。

写真でこういうものを撮りたいと、よくこころみる。
枯れ草とか芝の目の変わった光の受け方とか絡まった細い枝とか。
でも私の腕ではそれは錯綜した線にしかみえなくなってしまう。

石原さんの絵の、なんて厚いこと。
厚いって、深みがあるとかそういう意味じゃなくて、自分でも何をもって“厚い”と言っているのか分からない。
絵の具が厚く塗ってあるという意味じゃないし、輪郭が太いって意味でもないし、色調にもよらないし大きさにも細かさにもよらない。
でもそれは私のなかの基準としては歴然としてある感覚。
とても好きです、と伝えると石原さんはうれしそうにしてくれて、わたしに一枚絵を下さった。

泊まっていいよというお言葉に甘えて絵に囲まれて眠った。
日曜の朝、ひとりこっそり家を抜け出してもう一度石原さんが描く場所に散歩に行った。
昨日よりはどこを歩けばいいかということがなんとなく分かるようになった(気がした)ことが嬉しかった。
ひとりで歩くときに考えることや、そこで得た感覚や経験は私にとってはとても重要みたいだ。


いただいた絵を見ている。
とても大きくて、電車で誰も蹴ったりしないように最新の注意を払いながら帰ってきた。
枯れた芝が覆ってところどころ緑が吹いている。
ぎゅっと束ねられたような細かい枝の低木は葉をすっかり落として立っている。
ちからを抜いてその前に立つと揺らめくようだ。
ぱちぱちと枯れた葉が落ちる音、空気を含んだやわらかい土、一面を薄く輝かせる朝露、カメラの起動音に用心して飛び立つ小さな鳥たち。

絵を見ている私の後ろから、こういうところから今なにか振りのようなものをつくっているの?と石原さんが訊いた。
ううん、と私は首を振って、今日はただ、ただ受けにきました、と答えた。
まだただ感じただけだ。大事なものを抜き出しただけ。
いや、もっとさわりかもしれない。
こころが動いたことを今はまず泳がせておいて、これから少しずつひろってゆこう。
なにができるのか、まだ自分でもわからない。


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