* 大切にあたる



からだや頭の周辺に浮遊していることを、しばらくはそのまま泳がせてあげようと思う。
手ごたえある道筋を与えようとしてひとつにするよりも今はもう少し遊ばせてむくむく膨らませてころころ太らせたほうがよさそうだ。
そうだ、私のこころは自分が思っているよりもずっとのんびりじっくり生きているんだった。

ここ何年かいろんなことが繋がってきていた。
そろそろ無数の接点が意味をなし、枝が幹に還すころなんじゃないかという気がしていた。
なのにこのごろは分散してよりとりとめなくなってきている。
そうだ、そうだ、とつまめる部分はあちこちにあるし、これまでに繋がったことが瓦解したわけではない。
それでも日常で拾い集めたことひとつひとつがとても感覚的で、さもなく、簡単にどこかへ紛れてしまう近頃には少々じりじりする。
少し前まで特別だったことが馴染み、日常におりてきたことも理由のひとつだと思うのだけれど(それはたぶん喜ばしいことなんだろうけれど…たぶん)でももっと根本にあるのは別のこと。
今こころの基礎のある部分がすごく動かされているのだけれど、それに向けて軌道修正をするための混雑なのかもしれない、というふうにも思う。

なんだか足元の土を掘っているんじゃなくて、幹をしっかり抱きしめているんじゃなくて、枝をこねくりまわしていただけなんじゃないかという気がしてきていた。
紙の花を飾ったりとか、そういうにわかなことばかり。
それは何かの足しにはなるかもしれないけれど、あまりにも遠回りすぎておそらく一生という時間の中でどこかに切り込んでゆくことはできないだろう。

絶えないインプットとアウトプット、表面的な景色や情報は今の私をちらちらとかき混ぜるだけだ。
もっととても静かで止まった自身の時間の中から繰り返すように気付いていかなきゃいけない。
「足元を耕す」という目標で始まった今年もあと2ヶ月半、という時期にしてようやく気がついた。

それにしても、私の一生はこんなふうに、何かに気付く手段に気付く、みたいな靄の中で終わるんじゃなかろうか。
とちょっと途方に暮れてもいる。


▼秋の空