* 蓋



読んだ本にひきずられるようにこころのどこかが微かに打ちのめされる。
実際のわたしにはなにもなかったのだ、と考えても完全には去らない。
ベランダに出ると霧が出ていた。
オレンジの光が滲んで広がっている。
まちを包んでいてくれてよかった。

霧が濃くてベランダの向こうの世界がまったく消えてしまった日があった。
どんなに目を動かしても盲点のようにひろがって、焦点の合わせようがなかった。
たっぷり積もった雪のように歩いてゆけるような気持ちには全然ならなかった。
きっと足をおろしたとたん、痛みもないまま消えてしまっただろう。

取り出せる景色はそう多くないから何度も反芻することになる。
そのたびにちょっとずつ疵が入り、嘘も重ねられる。
どんなに潔白なつもりでももうその時じゃないというだけでそれはつくりもので、深く潜っていっているつもりになっているとしたら愚かだと思う。


雨の日は街をいとしくかんじる。
なにもかもが一緒に濡れているからかもしれないし、なにもかもが半分は自分自身の中を見ているからなのかもしれない。