* 『Dolls』 北野武

文楽に魅せられた。
足を動かすひとは黒子だけれど顔や胴体を動かすひとは自分の顔を隠していない。
人形の中に腕を通し表情をあんなに豊かに繰り広げるのに、自分自身の顔はほぼ無表情であることはすごく難しいだろう。
なにか、踊るときに感情を安易に表面に出さない、という最近考え始めてでもまだうまくつかめないことへのヒントになりそうな気がちょっとした。
文楽、実際ちゃんと見てみたいな。
歌舞伎の女形にどきどきしたのと近い感覚。

変わらない顔からいろんな感情を読み取ろうとする。
光と影のつくるバランスが表情を錯覚させることも確かだけれど、まったく変わらないものだからこそ見ている側が想像する。
動いてもうごいているようには見えない。
みせてもみえない。
この矛盾。
複雑なわたしのからだよりも、静止する人形の語ることばは何倍も饒舌だ。

ときどき、踊らぬことのほうがよっぽど面白いのではないか…と極端なことを考えたりする。

…と、全然この映画に関係がない。


いつもこころにこんな類の結末がじっと控えているなんて、どうやってひとと…というか世界とつながっていられるんだろう、と考えたりした。
ささやかで純粋なしあわせは必ずもぎとられる。
けれど噛み砕く間に、結局はわたしたちはいつか死ぬのだ、という考えがわたしをやさしくするような気がした。
どんなに苦労してつかみとっても、なんだかうだつがあがらなくても、やっと想いが通じても、結末はみんな等しいのだ。
蝉の抜け殻をつまんだのがついこのあいだで、今はもうひっくり返って固くなった蝉の本体を掌に包む。
そんなことを毎年繰り返しているけれど、わたしたちだっておなじこと。
瞬いて、消えてゆく。

衣装や美術は美しかった。
しかし生身のバランスと、つくられたもののバランスが時々あやうくなることがあった。
ちょっとのセンスの欠如で崩れ落ちるところをあやうい(いい意味で)ラインで引き止めていたかんじ。
ときどき、ロマンチストなんだなあ、ってほほえましくなるような美しさもあったりしたけれど。

片目を隠した深田恭子がとても不思議な存在感だった。
魅力がわかったかも。


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