* 荏原神社、場所の記憶



品川にある荏原神社へ友人と。
歩いているうちに母の生まれ育った場所だと気付く。
しかも今朝録画番組を見ながら小さな頃目黒川の灯籠流しを見たよ、という話を聞いたばかりだった。
八百屋さんの多い商店街。
品川駅から10分くらいしか歩かないのにこんなにひとのにおいのする場所に出るんだ。
かんかん照りの太陽と生活は同じ重力で、そこにふらふらと迷い込んだ密度の違う自分。

目黒川の隣にちいさな森みたいに神社があった。
蝉の声が空気をひっかいていたけど尖ったかんじがしなかった。
ゆれる葉っぱが静かだったから。
神社は特に威圧するでもなくて異空間のように引っ込んでいるわけでもなくて、ただそこに長いこといるよ、という感じだった。
とても年をとった穏やかなひとが微睡んでいるみたいに。
大きなアゲハ蝶がひらひらと木陰をいったり来たりしていた。

大きな切り株にカバンを置いてお能台を見た。
親密になれそうな舞台。
ここで踊ることには興味ないの?と訊く友達。
こんなに意味のある、存在感のある場所で踊るなんてよほどなにかこころの中に揃わないと無理だよ、と言う。
ただ日本人の血だけで立てる場所じゃない。
神社の血でも無理。
おばあちゃんに少しでも能を教えてもらえばよかったのかもしれない。
やっぱり踊りと神さまはつながるんだね、と言う。
でももし能が神とひととをつなぐ時間としてあったなら、なぜお能台には屋根があるんだろう?
なんとなく、神さまとつながるには天がひらけていた方がいいような気がする。
それとも日本の神さまは天国じゃなくて生活の中にあるし、なによりひとの中に住む神さまと通じる時間である、というような感覚なのだろうか。
それとも屋根そのものが天の意味を持つ、それ自体が完結した場所なのか。
なにもちゃんと知らない。


帰り道は行きに見つけた狭い小道を通った。
すきまのある戸に蔦がからまる。
庭を掃きながらこんにちは、と声をかけてくれるひと。
前輪の朽ちた自転車。
風鈴、色褪せたハンガー、茂る植木。
駐車スペースに寝そべる猫に話しかけて写真を撮らせてもらう。

新聞の集金のおじさんとすれ違ったとたんにおなかをすうっと母の子供のころの時間が通り過ぎた気がした。
身軽な(つまり学校のものを持っていない)子供の気配がしたから、ちょうど3時か4時前。
目の前には真っ白いマンションが建っているのにほんの刹那混乱した。


わたしのものではない記憶。
でも考えたらちっとも不思議じゃないんだな。
想像や感覚はいろんなものを補うし、つなぐから。


荏原神社