* 洗濯物と日曜日

いつもおばあちゃんちに行くのは楽しいのだけれど、ときどきそこから重たい滓のようなものを受け取ってぐったりしてしまうこともある。
今回がそうだった。
どの家もそうであるように私の家にも少なからぬ問題はあって、そのことを語ると時がどうにも進まなくなる。
今生きている人間の問題なのにどうして一番よどむんだろう、と胸もことばもつまる。
潜っていってその絡まった水草をほどくことができるよ、とずっと思っていたけれど、ことはそう簡単ではない。
私がこうして踊っていることは一族のルーツのようなものに深く繋がっていると感じる。
けれど今現在となりにいる家族のためにはなんの実際的な助けにもなっていない。
だからやっぱりよく、かなしくもなる。
私は要であり、切りかえのジャンクションなのだ。
血の性質のことを考えてもそうだし、自分の傾向も年々はっきりしていっている。
だからちいさいころに夢にみたような幸せはきっとこの時点にはのぞめないんだろうということも。不幸だということじゃなくて、全然性質の違うものだということなのだけれど。
運命、とかそういうことでもない。
ただこの先の流れがどういう類のものか、あるいは限定された選択肢が見えてきているということ。
強いけれど、それだからこそつぶしてしまうものがあることを恐れている。

+

頭をからっぽにしたいな。
年がら年中からっぽじゃないですか。とつっこまれそうだけど。
この何日か、卑小なことでいっぱいになって頭の皮が固い気がする。
美術館とかに行って、難しいことを考えないでぼおっと眺めて空間に過ごしたい。
それかでっかいソファーにぼんって身を投げて、こどもの本を読みたい。
そしたらむくむく充電できるはず。