* 森山大道、点在する化石



森山大道があんなに特別な想いをもって新宿を撮っているとは知らなかった。
彼が立ち寄る場所すべてが私にとっても懐かしく、においや音までが浮かぶようだった。

あちこちを点々と移り住んできてその中で一番長くいた場所というわけでもないのだけれど、新宿が故郷のような気がしている。10代のほとんどをそこで育ったからなんだろう。
ふと、私が見てきた新宿を撮りたいなぁ、と思った。
友達の家への細い路地、学校の廊下から見えるレンガのマンション、通った図書館、子猫が冷たく固まっていた十字路、ホテルが並ぶ通学路。
当たり前のことだけれど同じところを撮っても私は森山大道のような写真にはならないのだろうなあということを考えた。
過ごした時代がまるで違うしそこにかかわった年齢も年月も違う。
そして、写真にうつされるもの、込められるものをいつのまにかこういう視点で捉えることを当たり前に感じている自分に驚いた。

今まで住んだところを訪れたいと思った。
私が点々と存在した場所、記憶している時間。
森山大道は “写真は記憶と時間の化石だ” と言った。
私の記憶と時間は、今でもあそこに埋まって静かに眠っているのかもしれない。
それに出会いに行きたい。
もしかして私がこうして住む場所を変えてきたのはこのためだったんじゃないかと思うくらい、このことはしっくりと今に馴染んだ。

今私がしたいのは足元を掘り下げることだという考えが去年の終わりくらいから何故かこころから離れなくて初詣でもこの曖昧なようで確かな誓いをしてみた。
自分の内面へ、今あるものへ向かうべきなのに何故か取り入れたいことが多くてそれが今の状況に矛盾しているような気がしながらも、けれど感覚的には順当であるからよしとしてきた。
でもきっと今興味の向かうものにどんどん開いていってかまわないのだと思う。
それは私の足元が呼んでいるものだから。
きっかけや後押しを得て、私の中に積もったものを掘り起こし、さらに掘り進もうとしているんだと思う。
引き出される堆積したものを見て、またなぞってゆきたいんだろう。