* 透けて見えること



こころまちにしていた本が届いた。
クウネルで知った森麗子さんの画集。 (Click!)
職場の近くに図書館をみつけたので本はなるべく借りることにしましょうと思っているのだけれど(返すまでに読まなきゃ、と思うとだらだらせずに済むし)、めずらしくすぐに購入ボタンを押してしまった。

なにを欲しているのかをあきらかに自覚しているひとが好きだ。
たぶん私がそうありたいからなのだろう。
ゆるぎなくそこを見つめ、新幹線みたいにとんがりながら猛突進している。そんなこころの向かい方が好き。
なんとなくくせのあるものやひとに惹かれるのは、そのくせゆえにではなくて、おそらくそこに生じる重たくてかつ澄み切った引力になのだろう。
なにかを創るその方法はひとそれぞれだろうけれど、きちんと自分が何に心を寄せているかを自覚しているひとほど、自分の作品にそのものがありありとあらわれているのかもしれないなあと思う。
作家をしらなくてもその作品をいくつか見ただけで、ふふ、そうかあ、このひとはこんなものに関心があるんだな、と微笑ましくなることがある。
何を表現したいかということよりも、このひとが何を好きか。
そのことを考えながら作品を見る。

そこまで見通せるのは鑑賞者の目のちからももちろんあるだろうけれど、どのくらいそのひとが自分の内部に対してクリアなまなざしを持っているか、というところにかかってくるのかなあという気がする。
分かりやすいというのは表現が安易であるということとはもちろんイコールじゃなくて、純粋にそれが透けて見えるほどにこころが向かっている、整理がついている、ということであるのかもしれないと思う。
なんでも自分のことを例に出して考えちゃうんだけど、たとえば私なんかどんな服装をしていいか何が似合うかも分からないし、好きなものや自分のなかにあるモチーフはいくつも存在を自覚しているのにいざそれを掬い上げようとするとまだ固まっていないお豆腐みたいにぼろぼろ崩れたり重要なエッセンスはまだ混沌のなかに溶け込んだまま、という状態。

でもいつまでも自分の未熟さばかりに目を向けていてはいけないな。
それでは一生、責任をもてないままだ。


糸の旅 思い出とともに…―森麗子