* 画家・山口薫さんのこと



新日曜美術館にて山口薫さんを知る。

腺や色に厚みのある絵が好きなんだなあ、と思う。
この厚みが感じられない絵との差はどこに何故生まれるんだろう。
晩年になるにしたがって色もラインも溶け込むようになってゆくのだけれど、なにか厚みのようなものだけは消えない。

山口薫さんが白には色んな白があり白は全ての色だと気づいた、という言葉があったのだけれど(それは詩人の長田弘さんの口から語られたことでご本人の言葉かどうか定かではない)、モネのことを思った。
かささぎが柵にとまっている、雪一面の農家の絵。
モネを見たときに私は白には色んな温度があって、色んな明度があるということを再認識した。
そして曇りの日の白い空は全ての色を含んでいること。七色に見えることを思う。

どの絵も好きだったけれど面白かったのは沼に雪が降っている絵。
沼を斜めから見ていて雪がそこに降り注いでいるのだけれど、沼の円形がまるで真上から見ているように見える。
ふと、雪は真横から見ていて沼は真上から見ているような錯覚にとらわれた瞬間、この絵は落ちてくる雪を描きながら、その後水面に落ちる雪を感じさせるという時差を同時に生み出しているような感触にとらわれて楽しかった。
2コマのシーンが同時に表されているような。
多分技法としてはよくあることだけれど、そういうことじゃなくて、自分自身が同時に違う角度と違う時間でそのシーンを見ているような気になったことが面白かった。
同時に違う角度、というのはそれこそよくあるのだけれど、時間の感覚が加わっているから。
けれど実際そんな意図がそこにあるかは知らない。
私が勝手にそう面白がっただけかもしれない。

長田弘さんのおっしゃっていた「静もる」という言葉。
これが山口薫さんの絵にぴったりだったと私が感じたかどうかはともかくとして、日本語の感触ということについて考えると面白いなあと思った。
静けさが積もる感じで「静もる」。
静かさが積み重なって厚みを増せば増すほどに静寂が深まるなんて、そして言葉自体も透明度を増すなんて、なんて日本語はうつくしいんだろう。

最後の絵に自分の見出したものが全て終結していて、その全てに見送られているように感じる、という長田さんのとらえかたは嫌いじゃないと思った。
ロマンティックすぎるかもしれないけれど、やさしい。


「美しいものに触れるほど僕はかなしくなる。そこに人間の美への祈りがあるからだろうか」
~山口薫

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世田谷美術館で展示をしていたみたいなのに知りませんでした。
残念。
お友達のはろるどさんはいかれた様子。
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