* スモールステップ ソロダンス

何回か一緒に踊っている友人のパフォーマンスに行ってきた、メモ。

なにかひとつのことやもの、方向に執着することが生み出す効果のことを考えていた。
あるとき、そこに繰り返されているものの存在に気付く。サブリミナル効果みたいにいつのまにか彫りだされているのがその動き自体なのか、自分がそれを見つけようとしているのか。
見極めようとする次の瞬間にはまた新たな動きが飛び込んできて、その印象にずれみたいなものが生まれる。
慣性と、意外性。
そのさじ加減を決めるのはセンス以外のなにものでもない…のかもしれないと思う。センスってそんな簡単な、とも思うけれど。
たとえばその切り替わりがあと0.5秒遅かったら違う印象を与える。冗長と物足りなさの境の壁はほんとうに薄い。
自分と感覚が合わないとそういうところでああ、とさめてしまう。
怖いと思う。
不快をひきずっておいてひっくり返すこともできる。
フラストレーションと時間の関係。

席が近い場所では皮膚の感覚もダイレクトに伝わってくる。
敏感になっている感覚を味方につけるか、逃がれさせてしまうか、も難しいところ。

矢内原さんの演出は面白い効果を出しているのに実は最小限なのかなぁという気がした。
ニブロールを1度しか見ていないから印象にすぎないけど。

なにを見せたいか、どのように見せたいか、じゃあなくて「なにであるか」みたいなものが見えるとぐっと身を乗り出してしまう。
方法は単純でもいい。もしかしたら稚拙であってもいいかもしれない。(その逆よりはむしろ、ということ)
ただ、今わたしがそういうことにより興味があるだけかもしれない。あくまでも今、の感触。
舞台にあがるって怖いことだ。
生まれてから今まで積み上げてきたものなんて自分には把握しきれないのに、初めて自分を見るひとがそれを辿ろうとする。ものすごくものすごく芯に迫るかもしれない。
見ているときはそれを剥こうとする。もしかしたら。
自分から剥いたものには、見向きもされない。これももしかしたら。ときには、そして往々にして。
だから何だか裸というか、生々しい中継地点みたいな気がする。とおり抜けるときに私が託せるものはそんなに多くないのかもしれない。でもカラではなにもひっぱりこめない。だから手渡す材料はいっぱい持っていたいと思う。持ちすぎて通り抜けられないことにはしてはいけないからそこもさじ加減。

(隙、というものについて。
目の持つちからについて。)